ソファー(1/10)

関東地方は夕刻から豪雨に見舞われた。
夜から始まるはずだったスナックでの仕事は丸々休みとなった。突然訪れた休暇は、水族館に行くわけでも、恋人と甘い時間を過ごすわけでもなく、母と二人で大人しく部屋に閉じこもっていた。
我がマンションのベランダには雨戸がなく、申し訳程度の屋根しか備わっていない。こんな無防備な部屋だから、大粒の雨は容赦なく窓ガラスに向かって飛び込んでくる。その度にボツボツと鈍い音を立てるので、私と母は仔猫のように脅えた。ソファーの上でタオルケットにくるまりながら、ブラウン管に映し出される野球中継の代替番組をぼうっと眺めていた。その微かな光を頼りに私たちは互いの生存を確認し、嵐が去り無事に朝がくるのを待った。

ガラガラと窓ガラスの開く音で目が覚める。少し、うとうとしていたようだ。いや、少しではなかった。テレビが消えていることに気がつかない程、外は明るくなっており、鳩のポーポー鳴く声が部屋まで届く程、嵐は収まり静寂が戻っていたのだから。
昨夜までの湿気が嘘のように失せ、外から心地良い風が吹き込む。カーテンをふわりと舞わせた風は、壁に貼ってあるカレンダーと私の長い髪をもなびかせた。
母はベランダで洗濯物を干している最中で、私のシャツをパンパンと伸ばしている。「あれをやらないと、怒られるんだよね」口元だけでうっすらと笑い、開きかけた両目を閉じ、二度寝に入る準備をした。
「寝ながら笑ってどうしたの、郁美。そろそろ起きなさい」
言われるが早いかタオルケットを剥がされそうになったが、無理にしがみついていたものだから、私の上半身はソファーからずり落ち、左肘が床に擦れて軽い火傷を負った。
「あらら、ごめんね。今、絆創膏持ってくるから」
申し訳なさそうに母が言う。
「痛たた……、朝から酷いなあ、もう」
一気に目が覚めた私は、ぼやきながら、体を起こしてソファーに座り直した。痛かったけど、肘を見たら薄皮が一枚剥がれただけだった。これくらいならば、一晩経てば自然に治るだろう。
「あ、母さん。いいよ絆創膏は。大した傷じゃないから」
母はほっとした表情で、「じゃあ、お昼ご飯を作るから待っててね」そう言い残し、キッチンへ向かった。

母の後ろ姿が好きだ。夜の仕事をしているせいか、普段から服装が若々しく、家にいるときの髪型はいつもポニーテール。「私の自慢はね、うなじなの。商売道具なの」いつだったか、母は酔っ払ってそう言っていた。
お風呂上がりに母のうなじを見ると、女の私でさえ麗しさにどきりとする。世の男性が見たら、きっと神経が高ぶって困ってしまうだろう。
今日のブランチは、昨夜の残りのシチューとバゲット。それからバジルのパスタ。アンチョビを細かく刻んで入れるのが、我が家の味。食べながら、思い出したように母が言う。
「そうそう、今日は何か用事あるんだっけ?」
「大学の図書館に行くくらいかな」
レポートを全く書かぬまま夏休みを過ごしていたので、いい加減、資料を集めておかなければならないのだ。
「そう。今日はいつもより遅くなると思うから、先に寝てていいからね」
母の仕事は夕方から始まり、終わるのは早くて深夜二時くらい。遅いということは、詰まるところ明け方になる、ということなのだろう。
「うん、分かった。レポートに追われて夜更かしするかもしれないけど」
「肌が荒れちゃうから、あんまり徹夜は……」
と言いかけて、自分の言動に説得力がないことに気づき、苦笑する母。
「ご飯おいしかったよ。ごちそうさま」
手を合わせ、顔を見合わせて笑った。

雨が嫌いではない。しとしと降る雨音を聞くと心が落ち着くし、雨降りの翌日には、爽やかな風と、きらめく太陽の日差しが待っているから。
夏休みの真っ只中で、母の仕事が夜からとなれば、昼間は必然的に二人で過ごすことになる。近ごろでは老夫婦のように毎日散歩をしており、今日もこうして近所の川べりを二人で歩いていた。
「やっぱり、気持ちいいねえ。嵐の後は」
緩みきった表情で私は言った。
「呑気だねえ。あんたは先に寝たから知らないだろうけど、あの後また雨が強くなって、大変だったんだよ」
眠たそうな目で母が言う。昨日の雨で川が氾濫したのだろう。いつもより水位が上がっている。水流も激しいようだ。
「ごめんごめん、どこでも眠れるタイプだからね、私」
大きく深呼吸をし、湿気のない澄んだ空気を肺一杯に詰め込んだ。
「ああ、空気がおいしい」
ふと、前方を見ると、父とその子供らしき少年が紙飛行機を飛ばしていた。虚空に精度の高い弧が描かれて、なおも飛び続けている。上手だな――昔はよく父と一緒に作っていたっけ。
「ほら、懐かしいね。あんたもよく作っていたわね」
母も覚えていたらしい。
「うん、本当に懐かしい」
記憶の中の風景には、父と一緒にいる姿があった。もう十年も前の思い出だ。父の顔に焦点を合わせようとするが、ぼやけるばかりで、はっきりと思い出せない。それでも無理に想像していたものだから、飛んできた紙飛行機に気づけなかった。
コツン、と音がして我に返った。額に痛みを感じたのは、その直後。

散歩の途中、決まって立ち寄る喫茶店に入る。このお店は少し高台に建てられており、川を一望できるから好きだ。私はコーヒーといつものチーズケーキを注文し、母と向かい合って窓際の席に座った。
「なんか、今日は事故が多いなあ」
アイスコーヒーを飲んでいる母を背景に、ほんのり赤くなった額を、鏡で確認しながら呟いた。
「そういうのはね、気が抜けているっていう証拠。気をつけなさいってことよ」
そうかなあ、と言い返そうとしたがやめた。話が長くなりそうだったからだ。
「もしかしたら、今日は交通事故に遭うかもしれなかったじゃない。朝から二度も怪我をしているんだから、さすがの郁美でも、気をつけようと思ったでしょ」
「そう……だね」
「それに最近、外に傘を忘れてきたじゃない。こないだだって、図書館で借りた本が見つからないからって、一緒に探したでしょ。そうそう、先月だって――」
言い返さなくても長くなってしまった。まあ、母の言うことに一理あるとは思うけれど。
「聞いてる? 人の話」
こうなると、もう止まらない。観念して最後まで母の話を聞くことにした。日頃のストレスもあるのだろう。仕事をがんばって貰わないといけないから、娘としてこれくらいは我慢しなければ。
あ、このチーズケーキおいしい。頬張りながら、適当に相槌を打っていたら、母の気分は落ち着いたようだ。
喫茶店を出ると、私はその足で駅へ向かった。
大学までは、近いとも遠いとも言えない、電車で十五分の距離。母は律儀に駅の改札まで送ってくれ、「スーパーに寄って行くから、夕飯楽しみにしててね」と嬉しいことを言ってくれた。
「ありがとう、楽しみにしてる。行ってらっしゃい」
お礼と見送りの挨拶を先に終え、駅のホームへ向かった。