ソファー(2/10)

大学の図書館は割に混んでいた。夏休みで、一般に開放しているからだろう。目的の資料がある辺りへ向かうと、同じ場所で探しものをしている人がいた。いつもならば十冊くらいまとめて抜き取るのだが、気を遣ってしまい五冊しか選べなかった。
参考になる頁のコピーを取り、ついでに前々から読みたかった小説を借りた。これで大学での予定は終了。さあ帰ろうと大学の門を出ようとすると、後ろから声がした。勉だった。
初めての恋人である彼は、皆から「ベンちゃん」と呼ばれているが、私は「ツトムくん」と呼んでいる。付き合って間もないこともあり、ちゃん付けで呼び合えるほど、まだ深い仲ではないからだ。
「久しぶり。今日は涼しいね」
当たり障りのない話題を振る彼。
「うん。晴れて気持ち良かったから、朝から散歩しちゃった」
そう言うと、彼はにっこりと笑った。
「勉くんも、図書館に?」
「うん。実は、レポートがやばくって」
一緒だね、と私は苦笑した。
「良かったら、資料探すの手伝うよ。今日は何も用事ないし」
「助かるよ。神話について調べないといけなくて、困ってたところなんだ」
再び図書館に戻り、彼の手伝いを始めた。
神話関連の資料が置かれた場所は人気がなかったので、探すのが楽だった。彼がコピーをしている間、さっき借りた本を数頁だけ読み、今度こそ大学を出た。

大学の前には、車通りが激しいことで有名な国道がある。話しかけても車のエンジン音にかき消されてしまうので、言葉のキャッチボールが成立しない。だから、駅へ戻る際は裏道を歩くことにしている。国道沿いを行くよりも遠回りになるのだが、私も彼ものんびり屋のようで、遅れることに不満を抱くことはない。
しばらく歩き、駅が見えてきたところで彼が提案する。
「あのさ、特に予定がないんだったら、これから家に来ない?」
突然のことで驚いた。考える暇を与えず、彼は続けた。
「別に、変な気持ちがあるんじゃなくて……、良い街だし、お気に入りのカフェがあるし。君にも知ってほしいんだ」
大人っぽく演じたつもりだろうが、彼は大根役者だった。声が震えるなんて話にならない。でも、私にはその姿があんまり可愛らしく映ったものだから、つい承諾してしまった。
「いいよ。カフェに行きたいな」
「ありがとう。じゃあ、行こう」
もしかしたら、声の震えさえも確信犯だったのかもしれない。だとすると、彼はとんでもない名優ということになる。だが、私を放って先を急ぐ、不器用な彼の後ろ姿を見れば、あり得ないことだと分かる。
彼の長い首を見つめていたら、母と同じくらい、うなじが綺麗なことに気がついた。そうか、そうだったのか。私が好きになった理由は、そういうことだったのか。一人でしきりに頷いていたら、すれ違う人々から冷ややかな視線を浴びていた。
三メートル程空いてしまった距離を三秒で縮めると、右手で彼の左手を強く握った。とても温かい手だった。

彼が住む街へは、大学のある駅から電車で約十分。私が使う路線とは違うけれど、東京から神奈川方面に向かう点は同じだ。
駅前には立派なビルがそびえており、「ここには展望台があるんだよ」と案内する彼に着いて行き、エレベーターに乗り込んだ。
「私の街は……たぶん、あの辺りかな」
いつも散歩している川が見えたので、川上を辿って行けば私の街のはずだ。
「そっか。じゃあ、川沿いに歩けば君の家に着くんだね」
彼の言葉を聞いて気がついた。住む場所は違っても、いつも同じ川を見ていたのだ。そう考えると、少し嬉しくなった。
「本当だね。終電を逃しても、歩けば帰れるんだね。何分くらいかかるかな」
彼は眉間に皺を寄せながら考え始め、右手で指差しながら、
「たぶん、あそこが君の住む街の駅だから。ここからだと……」
と言って、話ながらまだ考えていた。
「勉くんって、真面目過ぎるって言われない?」
くすりと笑いかけると、彼の口元は緩み、
「言われる」
と、照れた表情でゆっくりと答えた。
「じゃあ、そろそろカフェにでも行こうか」
と次の行き先を決めている彼。
「あ、うん。どうしようかな」
展望台の窓からは、ローカル線が見えた。二両編成の電車が、まるで模型のようにのろのろと動いている。それを目で追いながら、考える振りをした。何故だか、彼を困らせたい衝動に駆られていたのだ。
「え、どうしようって?」
彼が不安そうにこちらを見る。私、本当は意地が悪い性格かもしれない。
「ちょっと疲れちゃったし、家の近所でコーヒー飲んだからさ」
もはや、どうすれば良いのか分からないらしく、彼は言葉に詰まっていた。可哀相になって来たので、きっぱりと言った。
「勉くんの家まで、案内してよ」
彼の方に向き直ると、目をぱっちりと見開いて私を見ていた。必死でしっぽを振るのを抑えている、子犬のようだった。

「汚い部屋だけど……」
二階建てのアパート、その二階の角部屋。彼はワンルームの小さな和室に住んでいた。駅からは徒歩7、8分といったところだろうか。アパートにしては丈夫な作りのようで、がっしりと外に突き出た日当たりの良いベランダには、布団が気持ち良さそうに日向ぼっこしていた。
男性の一人暮らしといえば、汚くて臭いものだろうと覚悟していたのだが、彼の部屋はおよそイメージからはかけ離れていた。
「ううん、全然汚くないじゃない。うちのがよっぽど散らかってるくらいだよ」
部屋を見渡すと、中央にはちゃぶ台が置いてあり、隅には勉強机。これだけは男らしく、部屋のサイズとは不釣合いな程に大きかった。テレビとCDラジカセがすっぽりと収まっているスチールラック、それから小さな本棚が視界に入る。初めての男性の部屋だからか、私の眼は興味津々。せっせと情報を集めているようだ。
「これ、すごいね。テレビとラジカセのはまり具合が」
彼は紙パックのジュースとコップを二つ抱えながら、嬉しそうに頷いていた。
「それ、自分でも驚いたよ。ジャストフィットって、こういうことを言うんだなって。あ、これくらいしかないけど、良かったら」
「うん、ありがとう」
注ぐのは私の役目だ。久しぶりに飲んだオレンジジュースは、昔よりも甘く、酸味が強く感じられた。
「あっ」と思い出したような声を出すと、彼はまた冷蔵庫のある通路に戻った。がさがさとビニールの擦れる音がし、数秒後にはポテトチップスがオレンジジュースの横に並んでいた。
「ごめんね。なんか、座る場所がなくて。落ち着かないよね」
座布団の上に座る私を気遣っているようだ。
「ううん、全然。畳の匂いって、お祖母ちゃんの家みたいで落ち着くよ。いい部屋じゃない」
「本当はフローリングの部屋が良かったんだけどね。和室だとベッドも置く気になれないし……、ほら、あんな風に机の脚がめり込んじゃうんだ」
確認したばかりの勉強机に目をやると、なるほど確かに脚の付け根が畳に埋まっている。
「テレビでもつけよう」彼がリモコンで電源を入れると、夕方のニュース番組が映し出された。
「――それでは本日の特集です。夏になると多くなるのは、蚊だけではありません。暴走族ともう一つ、何だか分かりますか。それは変質者です。特に、小さなお子さんをお持ちの方は参考になさってみて下さい」
アナウンサーが流暢に話している。近所の掲示板では「痴漢や変質者に注意!」といった張り紙をよく見かけるが、実際はどういう人のことを言うのか、ぴんと来ない。
「ねえ。変質者ってどういう人のこと?」
我ながら妙な問いかけだ。
「僕、見たことあるよ。小学生のとき、学校の帰り道で」
予想外の返答だったが、すぐに納得した。大学生なのにむさ苦しくないルックスを備えている彼のことだ。幼少時代は相当可愛いかったに違いない。彼は続けた。
「ロングコートを羽織ったおじさんが、前から歩いてきてね。僕は友達と二人で下校していたんだけど、そのおじさんが、こう、コートをね」
「バッと?」
「ははっ。そう、バッとやって。びっくりしたなあ。その、ブツが丸見えでさあ」
ブツが丸見え。彼の顔には相応しくない単語が出て来たものだから、可笑しくて吹いてしまった。
「もう。勉くんって変な人だなあ」
「ええ? お互い様じゃないかな」
至極もっともだ。
ふと、横目で外を見ると、西の空が紅く染まっている。楽しい時間はあっという間に過ぎるのだ。
「あ、もう夕方か。布団取り込んで来る」
彼がそう言うと、窓際のスペースに布団がどかっと置かれ、ほこりが舞った。「干したばかりの布団で寝ないで」とは、母によく言われた言葉だが、どうしても我慢できず、直ぐさま布団にダイブした。
「んー、暖かい。太陽の匂いがする」
幸せを全身に感じながら布団に埋まっていたら、急激な眠気に襲われた。そういえば、今朝は二度寝しようとしたところを起こされたのだ。眠いはずだ……徐々に意識が遠退き、頭の中が真っ白になる。
いつしか、自分の体が宙に浮かんでいるような錯覚に陥っていた。