ソファー(3/10)

空から街を俯瞰する。日本列島から関東地方にズームイン。さらに東京都、そして私の住む街へと。母と暮らすマンションが見えた。
少し視点を下に移動させると、彼と一緒に上ったビルがあった。どんなに大きな建物でも、上から見たらどんぐりの背比べ。日本一高いタワーとか、世界一の高層ビルとか、そんなものは無意味なのかもしれない。
さらにズームを利かせると、大学前の国道が現れた。相変わらず車の通りが激しく、蟻の行列の如く綺麗に群れを成している。しかし、蟻とは明らかに違う点があった。
車はクラクションを鳴らし、バイクのマフラーからは重低音が撒き散らされ、自転車は人にぶつかりそうな危うい運転でベルを鳴らし、歩行者は耳にイヤホンをはめて自分の世界に浸っている。
規則正しく動いているように見えて、実際のところ秩序は乱れに乱れているのだ。
何なのだろう、この人々。これでは誰が正しくて、誰が変質者なのか、誰にも見分けがつかないではないか。あ、危ない。
どん!
自動車同士がぶつかる鈍い音が、辺りが一面に響き渡った。見たくはない。見たくはないけれど、見なくてはならない。現実を知らなくては。
ぺしゃんこに潰れた車体、運転席と助手席には見るも無惨な親子らしき亡骸。どこかで見たことがある気がする――そうだ、川縁で紙飛行機を飛ばしていた、あの親子。
胸がきりきりと痛んだ。まだ子供なのに、惨すぎる。奥さんはいるのだろうか。いるとすれば、帰らぬ父子の死を受け止められる日はやって来るのだろうか。幼い命が奪われるくらいなら、私の命を差し上げたのに。
「今の言葉、本当だろうね」
あの子のお父さんだ。声のする方を向くと、赤く染まった手が私の顔に近づいていた。
「郁美。君の命を、今すぐ息子に譲ってやってくれ。郁美」
どうして私の名を知っているのだろう。あの時、名前を教えたかしら。だが、そんな悠長に考えている場面ではなかった。魂を奪おうと、赤から黒へと変色した手が、恐るべき早さをもって迫っていたのだ。
ごめんなさい。やっぱり、無理。諦めてください。
だが、気づいたときには、全てが遅すぎた。瞼の裏が光った。
「郁美――郁美ちゃん」
眼を大きく見開くと、一瞬、ここがどこだか分からなかった。
「大丈夫? 呼吸が荒くなり始めたから、心配したよ」
勉くん。そうか、私は眠ってしまったのか。
「ごめん。なんか、怖い夢見ちゃって……」
心臓がどきどきしている。
「ほら、水。飲んで、落ち着いて」
一気に飲み干す。その間に、彼は窓を開け放してくれ、夜の涼しい風が室内に吹き込んだ。深呼吸を繰り返したら、だいぶ落ち着いた。
「ありがとう。本当にごめんね」
「ううん。こちらこそ、ごめん」
何故か謝る彼。
不審に思った私は、まさか、寝ている間に何かされてしまったのだろうか。一瞬、我が身を案じたが、彼に限ってそんなことをするはずがないので、慌てて疑念を打ち消した。
「よく分かんないけど、どうして勉くんが謝るの?」
彼はしばらく言い辛そうにしていたが、ゆっくりと口を開き、「実はね」と前置きしてから言った。
「もう、あんな時間なんだ」
彼の指先が示す方へ視線を向けると、時計の短針は「1」を差していた。
「ごめん。終電がなくなるの、分かってたんだけど。すごく気持ち良さそうに眠ってたから、どうしても起こせなくて」
なるほど、だから謝られたのか。彼は続ける。
「タクシー代、出すから。おばさん、心配してるだろうし。帰った方がいいよ。駅前まで送るから」
どう対応したら良いものかと悩んだ。そもそも私が寝なければ良かったことだから、怒るべきではないだろう。
明け方に戻ると思われる母より先に、私が帰れば何も問題は発生しない。いや、夕飯を用意して貰っているから、帰宅してすぐに平らげれば、今日のことはばれないはず――。
そんなことを考えていたら、自分のやましさに気づき、深く恥じた。母さん、ごめんなさい。自責の念に駆られながら、彼に伝えた。
「平気だよ。始発の電車に乗って帰るから」
彼は心配ながらも信じられない、といった表情で言葉を返した。
「本当に? 無理しなくてもいいんだよ。一人娘が帰って来ないなんて、絶対に心配されるよ」
「大丈夫だから。もう大人なんだし……それに勉くんだって、少しはこうなって欲しい気持ちがあったんじゃない?」
彼は言葉に詰まり、しばし沈黙が続いた。気分を害していることは、沈黙が物語っていた。
ごめん、プライドを傷つけるようなことを言ってしまって。でも、今はこれが最良の判断だと思うから。口には出せなかったが、心の中で深く彼にお辞儀をした。
「……歯ブラシ、新品のがあるから、歯磨いてきなよ」
「うん、そうする。……ありがとう」
歯を磨き顔を洗って居間に戻ると、彼はもう布団に横たわっていた。

暗闇の中、ぼんやりと天井を見つめていた。
先程から、得も言われぬ居心地の悪さを感じている。彼との関係が悪くなった訳ではないだろう。明日になれば、またいつものように、笑い合って話せるはずだろう。そう、信じている。なのに、この不安は何だろう。嫌なイメージが脳裏をよぎる。振り切ろうと躍起になればなるほど、そのイメージは増幅される。
恋多き友人の、昔の発言を思いだしていた。
「彼と別れたんだ」そう打ち明けられた私は、どうして別れたのかと友人に尋ねた。すると、思いも寄らない答えが返ってきた。
「うーん、よく分かんない。なんでだろうね。なんか、些細なことで気まずくなっちゃって。それきり、お互いに連絡をとらなくなって。なんとなく、自然に終わっちゃったんだよね」
なんとなく。そんなことで、恋人同士だった二人が別れられるものだろうか。当時の私には、とても信じられない話だったが、今は少しだけ共感してしまう自分がいる。
悪い方向へ考えまいとする気持ちとは裏腹に、不安は更に大きくなる。時計の秒針がカチカチと時を刻む毎に、危機感が募る。初めての恋人を失ってしまいそうな、抗い難いプレッシャー。
どうすれば良いのだろう。勉くん、私は、あなたを――。

「ん……」
寝ている彼がぽつりと呟く。
「まだ、起きてるの?」
私は耳元で囁いた。
「丁度、夢の世界へ入るとこだった」
また、随分と間が悪い。
「ごめん、眠れなくて」
返事がしない。
「怒ってる?」
怒ってないよ。
「本当に?」
本当に。
「目を瞑っていれば、そのうち眠くなるから。お休み」
彼は本当に眠そうだ。
「あ、あのさ。ごめん。ちょっとだけ、いいですか」
許可を得ようと、恐る恐る返事を待った。
「うん、何」
私はほっとして、話を始めた。
「勉くんは、前世って信じる?」
一瞬、間が空いた。
「あまり考えたことないけど……どうなんだろう」
「あのね、昼間に図書館で借りた本。少し読んだんだけど」
「うん」
「面白いことが書いてあったの。”あなたの身近にいる人は、前世でも繋がりがあった人です“ってね」
「へえ、そうなんだ」
「だから、私の母も勉くんも、昔から知っている人なのかなって、思って」
「そういう考えもあるんだと思えば、悪くないんじゃない」
「うん、そうだよね」
我を忘れて喋っていたのか、喉が乾燥して痛む。ちゃぶ台の上の、ぬるくなったジュースを飲んで、慌てて潤した。
「あのね。私、本当はすごく人見知りだったんだ」
「そうなんだ。全然、そうは見えないけど」
「うん。勉くんはね、不思議と初対面の時から、気を遣わずに喋れたの」
「それは、異性として眼中になかっただけじゃないかな」
「ううん、違う。本当にね、会って間もない人とは、一緒にいるだけで疲れちゃうの。それが普通だと思っていたんだけど、勉くんだけは違ってた」
「そうだったんだ。だったら、嬉しいよ」
「だから――」
「前世でも顔見知りだったんじゃないか、って思うんだね」
彼はそう言うと、仰向けの状態から横になり、結果的に反対側を向いてしまった。それを見て、また思い出す。
「それにね、今日初めて気づいたんだけど、母と勉くんのうなじって、そっくりなんだよ」
ふん、と彼が鼻で笑う。
「うなじが? 何それ」
「ううん、母の首筋ってね、すっごく綺麗なんだよ。だから似てるっていうのは褒め言葉」
「男としては、喜んで良いのか、分からないけど」
「ううん、綺麗なのは良いことだと思う。男でも、女でも」
「そうだね……、うん。ありがとう。これからは毎日、丁寧に首を洗うよ」
返事をしてくれてはいるのだが、普段と違い感情がこもっていない。怒っている云々よりも、単に眠気が限界なのだろう。だんだん生返事になってきている。
「勉くん。これは天からの授かりものなんだから、大事にしてね」
そっと彼に近づくと、愛しい彼の首筋にキスをした。彼の後ろ髪が鼻に触れて、くしゃみが出そうになった。
「ん……」
さすがに気づいたかな。続きの言葉を待っていると、急に彼の左腕が伸びてきた。
「ごめん。今日は、もう寝るけど。朝、気をつけて帰るんだよ」
そのまま私を引き寄せ、背中に手を回す彼。両腕でぎゅっと抱き締められると、少し痛みを覚えたが、逆らうことなく、彼の胸にすっぽりと収まった。――温かい。干したばかりの布団以上に。こんなに、心がぽかぽかと温かくなるのは、初めてのことだった。
鳥肌が立つような、名画を見て感動したときのような、ざわざわとした感覚が全身を包んだ。
優しい人。彼が恋人で良かった。帰ったら、母さんに彼のことを紹介しよう。愛する人がいるんだって、自信を持って伝えよう。
お休みの代わりに、好きだよ、と言った。夜が明けるまでずっと彼の寝顔を見ていた。二人はもう大丈夫。そう確信した。明けない夜がないように、明日からまた笑っていられるのだ。

夜が白み、新しい一日が始まる。風も心も清々しく、彼のアパートを後にした。さあ、我が家に帰ろう。