ソファー(4/10)

夕陽は沈む。音もなく、ゆっくりと。

先日の豪雨もそうだったが、嵐の前の静けさとはよく言ったもの。事実、気味が悪いほど音がしないものだ。
生暖かい風が吹き、空が空色ではなくなり、どす黒い雲が西の空をずしりと覆う。マンションのベランダからその様子を見ていると、まるでこの世の終わりのような気分になる。雨が降り出したら、誰にも止めることはできない。雨風の当たらない場所で、嵐が去るのを待つしかないのだ。
喧嘩はまるで小さな嵐のようだ。
だから、今回の喧嘩だって、いずれ和解できるはずなのだ。母と口論になるのはしょっちゅうあることだが、今回はこれまでにないケースだから、動揺しているだけなのだ。
和解の方法は、まだ見つからない。けれども、嵐は必ず去る。止まない雨がないように、終わらない戦争がないように。もし年中止むことがなければ、人は嵐を嵐と呼ばなかっただろう。
嵐は、必ず去る。今朝からずっと、自分に言い聞かせている。

母には甘えすぎていたのかもしれない。母ならば、何でも分かってくれるだろう。何でも許してくれるだろう。大喧嘩が始まるまで、それは信頼ではなく、エゴだったとは、夢にも思わなかった。自分が情けない。
もっと早く家に着く予定だった。早朝は電車の接続が悪く、すっかり夜が明けた頃、自宅マンションのドアを開けた。
母は帰宅前だったので、一安心して靴を脱いだ。すぐに冷蔵庫を開け、ラップにかけられた総菜を取り出す。お椀にご飯を軽く盛り、キッチンテーブルに並べた。とてもお腹が空いていたので、あっという間にご飯を食べ終え、お代わりをした。前日のお昼から食事という食事をとっていなかったのだから、無理からぬ話だ。母の手料理をほぼ食べきって、手を合わせた。
別腹用にと、今度は既製のプリンを取り出す。見た目が味気ないので、デザート用の小皿に移し替え、リビングへ移動した。
この時点で、眠っていれば良かったのだが、後の祭り。
何も知らぬ私は、いつも通りにソファーに腰掛け、プリンを口に運ぼうとしていた。その時だった。ガチャッと音がして、ドアが開いたのは。ドアの向こうから、険しい表情でうつむく母の顔が覗いたのは。

聞いたこともないような怒号が飛び交った。
怒りに我を忘れてしまい、どんな罵声を母に浴びせてしまったことか。朝まで帰らなかった理由を聞かれ、彼の家にいたことを正直に伝えると、私の頬を手のひらで叩いた。
「最低の男だね」と母は言い切った。左の頬がじんじんと痛む。
「母子家庭なんだから、娘が帰らなかったらどれくらい心配するか、分かるはずでしょう? 人の気持ちも理解できない男なんて、ろくな人間じゃないよ」
続けてそう言われると、
「違う、彼も同じことを言ってたの。彼のせいじゃない」
と、彼をかばう発言をした。すると即座に、
「いいから、もう二度と会うんじゃないよ。あなたまで馬鹿になるから」
と言い返された。
いくら母でも、今回ばかりは口が過ぎる。彼のためにも、今の発言は許せなかった。カッとなった私は、生まれて初めて母に手を出した。私がされたのと同じように、左頬を右手で叩いた――。

そこからは、もう思い出したくもない。口に任せて、あることないこと、思いつく限りのことを母にぶつけた。
これまで恋愛について話し合いができなかったこと。更には、父と別居している原因をも、なすりつけてしまった。どうして、あれほど酷いことが言えるのだろうと、自分の心の不純さを嘆いた。
母の悲しみに満ちた顔を見るのも、辛かった。叩いてしまったときに、気づいていたが、自分で自分を止められなかったのだ。
急に大人しくなった母は、キッチンの方へ歩いて行くと、こちらを向くこともなく、「しばらく帰らないから。さようなら」と言い残し、家を出て行ってしまった。

全ては私の思い違いに起因する。だが、事実を知ったのは、しばらく先の話だった。
あんなに明るくなるまで、母は仕事をしていた訳ではなかった。実際は私より一時間は早く帰宅していたのだ。
母はどの部屋にも人影がないことを確認すると、早朝にも関わらず、知人に片っ端から電話をかけたらしい。けれども、誰一人として心当たりがない。ひょっとして、事件に巻き込まれたのではないか――不安で居ても立っても居られなくなった母は、最寄りの交番へ出向いた。しかし、行方不明になって一晩しか経っていないこともあり、なかなか取り合ってもらえず、警察官と口論になったらしい。こんなことをしても、埒が明かないと判断した母は、家に戻って気を落ち着かせようとした。
それなのに、私と来たら呑気に口をぽっかり開けて、プリンを食べようとして。おまけに、初めて聞く彼の話が出て……混乱するのも無理はない。怒られるのは当然だ。

2DKの我が家を、こんなに広いと感じたことはない。一日が、こんなに長いと感じたことはない。昨日、母と二人でブランチを食べたのが、夢か幻のように思えた。
母がいなくなって、しばらくは放心状態だった。気を紛らわそうと、レポートに取りかかってみたり、本を読んでみたりしたが、一向にはかどらなかった。
今の私には、最早ソファーに小さくうずくまることくらいしか、為す術がないのであった。嵐の前では、人間は完全に無力だ。

黄昏の街には、いつしかネオンと月光が瞬いていた。