ソファー(5/10)

母の失踪から二日目。

人生で一番の幸せを感じた人も、人生で最もどん底にいる人にも、朝は平等に訪れる。昨夜は身動きがとれぬまま、嵐の夜と同様、タオルケットにくるまって眠った。時間を浪費している。
昨日よりは落ち着いたので、ようやくソファーから這い出すと、水をがぶがぶと飲んだ。鏡を見ると、血色があまり良くない。何でもいいから、栄養を摂らなければとキッチンへ向かう。しかし、加工せず食べられるものなど冷蔵庫にはなく、炊飯器に残っていたご飯をお茶漬けにするくらいが関の山だった。
「こんなんじゃ、一人暮らしできないよなあ」と参っていると、世の一人暮らしをしている人々は大したものだな、と思った。

勉くん、元気かな。彼の笑顔が胸の中にぱっと咲く。あれから連絡はなかったが、私たちにとっては普通のことだった。
彼とは、付き合い始めてから一度も受話器越しに話したことがない。各々、相手の電話番号を教え合ってはいるが、まず母がいる時間帯には、電話などできるはずがない。わざわざ公衆電話を使って話すような用件も、今のところは思いつかない。専攻科目が違うものだから、勉強に関しては友人を頼りに電話をすることはあるのだが……。基本的に私と彼は、直接会う以外に、日常での接点がないのであった。
付き合い方を知らない、恋愛初心者の二人。そんななので、大学のキャンパスで会えば、何となく次の予定を決める程度。
冷めている訳では決してないのだが、とにもかくにも経験が足りない。共有する時間が長くなれば、互いの心に化学変化が起きて、徐々に恋愛体質になるのではないか。そんな風に、都合良く解釈している。
彼を母に紹介する機会があれば、いつでも電話をかけられるようになるだろうが、現状では無理難題である。
考え事をしながら食べていたので、すっかりぬるいお茶漬けになっていた。

プルルルル――突然、電話のベルが鳴った。
滅多に電話の鳴らない我が家。静寂の中、一人でいたものだから、驚きのあまり腰が抜けそうだった。もしかしたら、母かもしれないと期待して、こわごわ受話器を上げた。
「はい。もしもし」
返事がない。母なのだろうか。
「もしもし……、母さん?」
やはり返事がない。
「勉……くん?」
そんなはずはないと思いながらも、尋ねてみる。
「……」
受話器の向こうから、呼吸器系が老化しているような息を吐く音が聞こえたかと思うと、電話は切れてしまった。
いたずら電話なのだろうか。年配の男性っぽかった。もしかすると、母の務めるスナックの客かもしれない。
昔、一度だけそういった電話がかかってきたことがあった。あの時も、今日のように私が受話器をとった。声の主は、自分に気があるのだと勘違いした若いサラリーマンだったらしい。母の適切な対応により、再び電話がかかってくることはなかったが、子供ながら「男って怖い」と実感した。
あしらいが巧みなのは、さすがに客商売のプロなだけある。母はその時、「スナックはそういう場所じゃないの。今の人、キャバクラしか知らない人だったのよ」と言っていたが、当時の私には、さっぱり意味が分からなかった。

無言電話ほど後味の悪いものはない。
勉強が煮詰まったときなど、頭の中がごちゃごちゃしてきたら、少し熱めのお風呂にはいるのが私なりの対策。湯船に浸かりながら、今後どうすれば良いのかを考えた。
母はどこへ行ってしまったのだろうか。
気になるのは、スナックの仕事を休んでいないかどうかだ。大人だから、そんなことはしないだろうが、あの思い詰めたような母の表情を思い浮かべると、今は何をしてもおかしくなかった。
もしも無断で何日も休むようなことになれば、いくら長年勤めている母でも、辞めさせられてしまうだろう。そうしたら、誰が学費を払ってくれるのか。バイトもしたことがない私が、すぐに仕事を見つけられるだろうか。心配する材料は増える一方だ。

考えるほど先が見えなくて不安になるが、お湯に長時間浸かっていたら、考えることすら面倒になった。体が浄化されて行くに連れ、今回の事件を前向きに捉えられるようになった。そして、一つの考えがのぼせ始めた頭に浮かんだ。
明日、母の勤めるスナックへ行ってみよう――。
何か分かるかもしれない。お風呂から上がり、心に決めた。まだお小遣いは幾らか残っている。二千円もあれば、問題ないだろう。
いつまでも、くよくよしていられない。きっと、これは乗り越えねばならない、試練のようなもの。私と、もしかすると母にとっても。ごめんね、母さん。辛いよね。私も辛いよ。

ようやくレポートに手をつけ始め、寝るまでの時間を全て勉強に費やした。普段は使わないのだが、暗く淋しい夜は不安で一杯だ。私は玄関のドアにチェーンをかけると、自分の部屋に戻り、ベッドで眠ることにした。
明日から、動き始める。