ソファー(6/10)

三日目の朝は、無事に母にも訪れたのだろうか。

昨夜は久々にぐっすりと眠れたので、目を覚ましたらお昼だった。
スナックが開くのは夜。他の客がいると話しづらいから、仕込み中の時間帯に訪ねることにした。
小学校の低学年くらいまでは、よく母と一緒にスナックへ遊びに行ったものだ。家では食べられない、珍しいピーナッツが置いてあったので、ぼりぼりとつまむ手を止めなかった。
マスターは、当時から既に「おじいちゃん」と呼べる風貌だった。母からは何も聞かされていないから、きっとまだご存命のはずだ。マスターはあまり客前に出ることがなく、カウンターの奥の狭いキッチンにこもっていた。お酒を作り、会話をするのは全て母の仕事だ。
私が小さかったせいか、当時は店内が広く感じられた。しかし、五、六人も入れば満席になった記憶があるから、本当に狭い、隠れ家的なスナックなのだと思う。週末の忙しいときは、若いお手伝いさんを見かけたけれど、さすがに今はいないだろう。
ヒールの音をカンカン鳴らしながら、マンションのらせん階段を下りる母に着いて歩く、幼少時代の私。今でもお世話になっている、あの川沿いの道。しばらく歩くと、隣町へ架かる橋が出現する。渡ったら、もうお店はすぐそこだ。昔は遠く感じたけれど、大人の足で歩けば、十五分もあれば辿り着くだろう。
約十年、顔を合わせていないから、きっと気づかれないだろうな。懐かしい思い出に浸りながら、日が暮れるまでの時間を持て余していた。

陽の光を浴びよう。
あれから三日間、外に出ていないし、誰とも話していない。無言電話の主以外には。
そろそろ外界と接しなければ、ただでさえ人見知りの私は、誰とも話せなくなってしまうのではないか。今後の生活に支障を来すので、リハビリとして、いつも川沿いの道を歩くことにした。
部屋を出た瞬間から、眩しくて眼を開けていられなかった。外の世界は、これほどまでに明るかったのか。今日は植物のように、太陽の力をたっぷり頂くとしよう。
気合いを入れて歩いたのに、僅か数分で疲れを感じた。川に着く頃には足がだるくなっており、我ながら不安になった。
仕様がないので、例の喫茶店に立ち寄ることにし、モンブランとコーヒーを注文した。

いつもの窓際席に座り、またいつものように、外を眺めた。
柴犬を連れて散歩をするお爺さん。賢いな、飼い主の歩くペースに合わせ、犬ものんびりと着いて歩く。草むらに鼻を突っ込んでくんくんしたり、すれ違う人に注目してみたりして、暇を潰しているようだ。実に賢い。
若いカップルが笑顔で歩いている。こんな平日の昼間なのに、仕事をしていないのだろうか。ああ、きっと私と同じ学生だ。そういえば、この川を下れば彼の住む街へ行ける。今頃、何をしているだろう。
今日は歩く人が少ないようだ。視線をコーヒーカップに戻した。少しぬるくなったコーヒーに角砂糖を二つ入れ、ゆっくりと溶かしてから飲む。
モンブランのてっぺんには、くるみがちょこんと乗っていた。木の実が大好物なので、フォークの先でくるみをすくおうとした。しかし、思いの外簡単にケーキから剥がれてしまい、勢いが強すぎたフォークはくるみを蹴飛ばし、ころころと床を転がった。
「ああっ」
小さく呻き、仕方なくモンブランだけを食べる。客が他にいなくて良かった。今の気分では、こんな些細なことでも恥ずかしいのだ。
しかし、よっぽど悲しそうな顔をしていたのだろう。止まっていた空気が動くのを感じ取ると、店員さんが私の方に近づいてきた。
「よろしければ、どうぞ」
そう言って差し出されたのは、小皿に乗せられたくるみだった。しかも三つも。
すいません、ありがとうございます。申し訳なさそうにお礼する私。良い店だ。本当に嬉しい。一つはそのまま食べ、一つは半分になったモンブランに乗せて食べた。もう一つは、どうしようかな。

カラン、と音がして、親子連れの客が入って来た。私の近くに座ったのは、あの紙飛行機の少年だった。向かいに座るのは、初見の母親だ。
良かった、無事に生きていて。
夢の中で勝手に天国へ送ってしまったので、嬉しくて微笑んだ。
「あ、あの時のお姉ちゃんだ」
少年も気づいたらしく、無邪気に手を振っている。照れながら、私も小さく手を振った。
失礼じゃないよね、と少年の母に会釈をしてから少年に近寄った。
「良かったら、これ食べて。くるみだよ」
少年はあまり喜んではなくれかったが、母親にお礼を言われた。
「ありがとう、お姉ちゃん」と喜ぶ笑顔が見たかったのに、少し悲しかった。くるみをあげる女は変だろうか。
変かもしれない。ずっと家にこもっていたから、一般的な感覚が麻痺しているのだろう。そう言い聞かせると、会計を済ませて外に出た。

喫茶店でゆったりと過ごした気でいたが、スナックが開くにはまだ数時間ある。
川縁に立つと、釣りをしている人が何人か目に入る。釣りは禁止されている川なのだが、都内では池や川が少ないことを考えると、仕方のないことかもしれないな、と思った。
川上に歩けば橋が見えて来るだろうが、川下に歩けば彼が歩いているだろうか。だとしたら、彼の住む街まで散歩してみようか。
そんな他愛ないことを考えていたら、川下の方から見覚えのある人影がこちらに向かって動いていた。