ソファー(7/10)

彼はこちらを見て突っ立っていた。

私と彼は、草が生い茂っている斜面に並んで座った。
「信じられない。どうしてここに勉くんがいるの?」
喜びを隠そうとしながらも、つい、にやけてしまう。諦めて、飛び切りの笑顔で尋ねてみた。
「いやあ、川を見ながら歩くのも、悪くないかなって」
よく分からない返答なので、もう一度聞き返した。
「私がこの街に住んでいなくても、歩いてた?」
うーん、と考え込んでいる彼。
「勉くんは、女の子の気持ちが分からないんだねえ」
彼は私を一瞥すると、暫しの沈黙の後、言葉を発した。
「本当は、もしかしたら君がいるんじゃないかって、思ってた。だから君がいてすごく驚いたし、嬉しかったよ」
素直な言葉を投げかけてくれた彼が愛しくなって、思わずキスをしそうになった。
「あのさ、もう少ししたら、母が勤めているスナックに行くんだけど。良かったら一緒に行かない?」
突然の申し出に戸惑っていた。
「え、おばさんの?」
「うん。でも、今日はいないと思うから気にしないで。十年ぶりに遊びに行くだけだから。スナックなんて行ったことないでしょ?」
「そりゃあ、ないけど。なんか怖いな」
「ううん、大丈夫。お爺さんがやっているようなお店だから」
またしても沈黙が続いたが、彼は観念したようだ。
「うん、分かった。じゃあ、今夜は付き合うよ。こないだは僕に付き合わせちゃったからね」
正直、一人で行くのは怖かったので助かった。彼と一緒ならば心強い。スリム体型で弱そうに見えるけど、意外と力持ちなのだ。このことは、ゲームセンターのパンチングマシンで計測したときから知っている。

いつしか日は暮れ始め、私たちは手を繋ぎ、隣町へと続く橋を渡った。川面に夕陽が映るのを見て二人で感動していた。
「すごい……」
それ以外に、言葉が出なかった。彼と同じ時間を共有し、一つになる感覚があった。同じものを見て、きっと同じだけ感動している。
あまりにも美しい夕焼けだ。夕陽はこんなにも綺麗なのに、見る人の心が荒んでいれば、何も感じられないものなのだ。昨日までの私がそうだったように。そう考えると、何だか太陽に申し訳ない気持ちになった。
しばらくの間、何も考えずに揺らめく光に気を取られていた。
ふと、見つめ合う瞬間があった。「何も言わなくても、そういう雰囲気になるから、焦らなくても大丈夫だよ」とは、やはり友人の言葉だ。そこで、とうとう初めてのキスをした。
後ろで車が走る音、川の流れる音、全ては一つになり、遠く別の世界で反響しているように感じられた。どれくらいの間、唇を重ねていたか分からないが、我に返ると、既に夕陽は沈み切っていた。

記憶を辿りながらスナックを探した。店名は覚えていたので、探すのに苦労はしなかった。店名の書かれた看板には、まだ電気が点灯していなかったので、まだ開店前なのだろう。予定通りだ。
しかし、入り口が民家と何ら変わらない佇まいだったので、しばらく入るのに躊躇していた。ドアを開いたのは、内側からだった。見覚えのあるお爺さんの顔が覗くと、思わず私は「じいちゃん!」と叫んだ。

「いやあ、吃驚したよ。あの時のまんまだもんね。じいちゃんって呼び方」
マスターがカウンターの内側に立って話す。きっちりベストを着用しているので、スナックなのに何だかお洒落な感じだ。
「すいません。十年ぶりなんですけど、急に来たくなっちゃって」
いいんだよ、と顔中で笑うマスター。
とうに還暦は過ぎているはずなのに、背筋はぴんと伸びており、顔にはくっきりと深い笑い皺。笑うと一層くしゃくしゃになって、赤ちゃんみたいだ。こんな風に年を重ねたいな、と紳士的な姿を見ながら思った。
さっきから気になっていたようで、マスターが尋ねる。
「そちらの方は、彼氏さんかい?」
彼は笑顔でこっくりと頷いた。どうして何も言わないのだ。
「そうか、郁美ちゃんも、大人になったねえ。今日はお祝いだね」
と言ってマスターは、裏から何やらお酒らしきボトルを持ってきた。ボトルの首には、何故かリボンが巻かれていた。
「もちろん、お金は要らないからね。これを皆で飲もうじゃないか。この間、二十歳になったんだから、問題ないもんね」
グラスが三つ置かれると、シャンパンが注がれた。いい香り……、甘くて、花のようだ。
「それじゃあ、十年ぶりの再会と、郁美ちゃんの誕生日と、彼氏に乾杯」
彼とはお酒を一緒に飲んだことがないが、勢いよく飲み始めたので、また驚かされた。
「いい飲みっぷりだねえ。空いたらまた新しいのがあるから、どんどん飲みなさい」
マスターは勧めるけど、彼は大丈夫かしら。私は、母が飲んでいるお酒を、たまに味見するくらいだから、ほとんど免疫がないのだが……あ、このお酒おいしい。
「じいちゃん、母は今日休みだと思うんだけど、仕事は辞めていないですか?」
マスターは驚いて眼を見開いた。
「辞めるって? そんなことは、絶対にないよ」
「そうですか。だったら、いいんだけど」
ただね、と言うマスター。
「一週間ほど、まとまった休みが欲しいって前々から言っててね。ほら、豪雨の日があっただろう? 丁度、あの日から休暇だったんだよ」
そうだったのか。前から決めていたことだったとは、考えもしなかった。
とすると、あの日は豪雨じゃなくても、仕事は休みだったということだ。そして、「遅くなるからね」と言った豪雨の翌日も、仕事はなかったということだ。これは一体、どういうことだろう。推理を働かせようとがんばってみたが、酔いのせいでそれ以上は何も考えられなかった。
「ところで、どうして私が二十歳だって知ってるの?」
お酒が回り、更にしわくちゃの笑顔でマスターが答える。
「そりゃあ、君のお母さんが毎年言ってるからねえ。もう十五歳になったよ、今年で十九歳だよって。誕生日まで覚えちゃったよ」
アルコールが回っているせいか、信頼の置ける人に囲まれて気が緩んでいたせいか、すっと涙が頬を伝った。
ハンカチで拭こうとバッグに手を入れようとしたが、間に合わなかった。我慢していた感情が爆発し、私はその場でわんわん泣き出した。

私が酔い潰れて眠ったあと、頭上ではマスターと彼の声が飛び交っていた。
「勉くんと言ったかな。郁美ちゃんのお母さんはね、気が強くてしっかりしているから、君みたいに大人しい子は好きじゃないかもしれない」
「そうなんですか。弱ったな」
いつの間にか打ち解けているようだ。
「だがね。君は、とても良い雰囲気を持っているよ。私は長年生きてきたから、それくらいは分かる。だから、郁美ちゃんを好きなんだったら、母親にちゃんと会って、認めて貰いなさい」
「どうすればいいですかね」
「君なら簡単さ。自分に正直に、偽りなく気持ちを話せばいいだけだよ」
「あの……僕等、お互いに初めての恋人で。正直、付き合うってどういうことなのかが分からなくて、いつも迷っているんです。本当は心配なのに、連絡すると迷惑かなって思っちゃうし。でも、大好きなんです。郁美ちゃんのことが」
大胆な告白に、耳が赤くなった。彼はずっと、マスターからは見えない位置で手を握っており、私が照れていることに気づいたのか、強く手を握り直していた。
「それだけ、意志がはっきりしているんだったら、何も心配はいらないよ。郁美ちゃんは孫みたいなものだけど、君だったら安心だ。大事にしてやってね」
「はい。ありがとうございます」
「あと一つ。もう寝ちゃってるから、起きたら伝えてあげてほしいんだけど」
「はい。必ず伝えます」
「郁美ちゃんのお母さんは、あと二、三日もすれば帰ってくるよ。大体の話は聞いているから。君たちがここに来るかもしれないってこともね」
本当は、もっと母のことを聞きたかったけれど、この状態ではどうにもならない。でも、もういいのだ。きっと、何も問題はないのだから。私も彼も母さんも、気を遣いすぎているだけなのだ。
母の居所は気になるが、私はとにかく信じ通すことにした。それしか、今の私にはできない。それが私なりの精一杯の親孝行。
「ところで、マスター。誰も人が来ないけど、このお店、大丈夫ですかね?」
彼が言うと、マスターの笑い声が店内にこだました。
「あっはっは。看板に電気点けるの忘れてたよ。今夜は貸し切り。君、二人でもう一本空けようじゃないか」