ソファー(8/10)

結果、午前様になってしまった。ふらふらで歩けなかった私を、彼が背負って部屋まで送ってくれたらしい。あれから更に飲んだと思われるのに、どういう肝臓を持っているのだ。
帰り道、橋を渡る途中のこと。どうしてお酒に強いのかと尋ねたら、「うちの親父、アル中でね」と彼が言ったことを覚えている。だが、それ以降の記憶は全くなかった。記憶を失うというのは実に恐ろしい。
「起きた? 水をたっぷり飲んだ方がいいよ」
リビングから彼の声がしたので、ふらふらと立ち上がった。
「居間のソファーで寝させて貰ったよ。これ、気持ちいいね。はい、水」
水をごくごく飲むと、体中に水分が染み渡る。お酒を飲むと、乾いてしまうのだな。私は一息ついてから答えた。
「ああ、それね。本当はソファーベッドなんだ。でも、ベッドとしては寝心地悪いから、今はソファーとして使ってるの」
そう言って、また水を飲んだ。
「そうなんだ。うちの布団、薄くて背中が痛くなるから、下に板でも敷いて、ベッド買おうかな」
「うん、いいと思うよ」
何気ない日常の会話。これが、如何に必要とされていたか。如何に大切なことか。ここ数日の出来事で、「何でもないこと」の重要性を身に染みて実感した。
「ところで……」
プルルルル――。
彼が何かを話そうとすると、電話が鳴った。
また、いたずら電話かもしれない。嫌だなあ。
「どうしたの。電話、出なくていいの?」
「あ、うん。今出るよ」
受話器を上げる。
「もしもし」
まただ。やはり返事がない。鼻から溜め息を吐いた。小声で彼に、「最近、いたずら電話がかかってくるの」と伝えた。
すると彼は受話器を取り上げ、
「もしもし? あんた、どちら様ですか。迷惑してるんで、二度とかけて来ないで下さい」
と捲し立て、受話器を置いた。呆然とする私に、「男がいると分かれば、もうかけてこないよ」と優しく言った。
「あ、ありがとう」
急に逞しくなった彼の胸に飛びつき、腰に手を回して抱き合った。彼は私の髪を撫でてくれた。こういうのも、初めてのことだ。

「勉くん。お願いがあるんだけど」
「ん、何? 郁美ちゃん」
わざとらしく名前で呼ぶ彼。面と向かって言われたのは初めてなので、照れくさくなった。
「今日はね、二人で色々な話がしたいの。お互いに、知らないことが多すぎたと思うから。私なら、心配しなくていいから、本音で話がしたい」
にやりと笑って、彼は言った。
「いいよ。でも、多分そんなに話は続かないと思うよ」
こちらも負けじと不敵な笑みを浮かべて対抗した。
「じゃあ、お酒買ってくるからさ。飲みながらだったら、何でも話せるでしょ?」
酔うと饒舌になる彼のこと、やっぱり反論できないようだ。
「うーん、負けたよ。でも、レポートが全然終わってないから、夜には帰るからね」
「あ……、そういえば、私もまだ全然やってない」
「駄目じゃないか」
「へへ」
まあ、いいや。嫌なことは後回しにして、今日は夜まで話し合いをするのだ。

夜が来るまで、多くの話をした。
映画や音楽に始まり、好きな街、好きな散歩のコースのこと。最近のニュースや、芸能人について。友人や、友人の定義。最後は、家族の話。
聞いて最も驚いたのは、彼の家族のことだった。
彼は元々、いわゆるお金持ちの家庭に生まれたのだが、景気が悪くなると会社が倒産してしまい、養子縁組に出されたそうだ。
新しい家に移ったは良いが、義父はアル中で荒れており、中学生の頃からお酒を飲まされていたという。義母はパートをしながら家庭を支え、彼もまた新聞配達をして、お金を稼いでいた。
普段はなよなよして見えるけど、礼儀をわきまえている。そして、いざというときには度胸がある。あの不思議な人格は、複雑な家庭環境が作り出したものだったのだ。「本当に、うちの親父は馬鹿でさ」と語る彼の横顔はとても嬉しそうで、ますます好きになった。

外はすっかり暗くなっていた。彼を駅まで送ろうとしたが、足音がおぼつかない。
「遅くまでありがとう。送って行きたいけど、すごい酔っちゃったから、無理みたい。ごめんね」
今日はかなりの量のお酒を買い込んで、昼間から飲み続けていたのに、彼はほんのりと頬が赤らんでいるだけだった。
「ううん。僕は平気だから。お互い、レポートがんばろうね」
そう言って、お別れのキスをした。

幸せな一日だった。昨日、外に出なかったら、今頃はまだ悲しみに暮れていたことだろう。
行動を起こさなければ、何も始まらない。それを教えてくれたのは、たった一人で私を支えてくれる、母の後ろ姿を見て育ったからだろうか。
お風呂に入って、お酒を抜いた。今夜も気持ち良く眠れそう。母は明日か、明後日には帰ってくると聞いたから、心配はいらない。あと少しだけ、一人暮らし気分を味わっておこう。

歯を磨こうと洗面所に向かった時、ふとドアの外が気になった。耳を澄ますと、玄関の外でコツコツと人の歩く音がして、それがドアの前で止まった。
酔っ払っているせいか、恐怖心はあまりなかった。しかし、犯人の顔を確認してやろうとドアの覗き穴に近づこうとしたが、体が言うことを聞かない。酔っ払っていても、怖いものは怖いらしい。仕方がないので、なるべく音を立てないようにし、じっと固まっていた。
再び物音がした。泥棒? だとしたら、こんなバスローブ一枚の格好で見つかってしまったら、何をされるか分かったものじゃない。汗が冷や汗へと変わる。頸動脈がどくどく鳴るのが聞こえる。
ガタン。一瞬、ドアが開いたのかと思い心臓が止まりそうになったが、ドアのポストへ何かが放り込まれた音だった。再び足音がしたが、それはすぐに小さくなり、遠くに消えた。