ミヨ

教室の窓から校庭を眺めていると、どこからか紙くずが飛んできて、俺の足下に落ちた。
「それ、見せて」
ミヨは紙くずに興味津々だ。

幼なじみのミヨは、変な奴だった。今だったら霊感や第六感が鋭かったのだと説明できるのだが、昔の俺には、ミヨが何を言っているのかまったく分からなかった。だって、唐突にこんなことを言うんだよ?

「見て、この紙くず、手紙みたい。これはきっと天国からのメッセージよ。これなんか、まるで君が書いたみたい」

こんな風にね。他にも「人は空を飛べるのよ」に始まり、「君は私、私は君なんだよ。分かるよね」「もうすぐ大きな地震が起きるよ。だからすごく具合が悪いの。地震で亡くなる人たちや遺族の悲しみが伝わってくるの」とか、挙げれば切りがない。そんなこと言われても、当時の俺には理解できるはずがなかった。

ミヨと一緒にいる時間が好きだった。ミヨのことは、誰よりも大切に思っていた。俺はやんちゃな子だったから、同じ場所にじっとしているのが苦手で、同級生をいじめたり、母親にひどいことを言って泣かせたりもした。いろんな人に迷惑をかけてきた。でも、ミヨの前では、俺はまるで別人のように大人しく、優しい子でいられたのだ。

ある時、ミヨにこんなことを言った。

「俺、ミヨの前にいる時は大人しいけど、本当は嫌な奴だよ。同級生を泣かすし、この間なんて母ちゃんを泣かせちゃってさ。ミヨの前にいる時の俺は、きっと別人なんだろうね」

ミヨは表情を変えず、淡々と答えた。「君は」ミヨは俺のことを名前で呼ばなかった。いつも他人のように「君」と呼んでいた。

「君は、小学生の私が説明するのは難しいのだけど、本当はとても鋭い人だよ。感覚というか、そういうものね。だから、普段から周りの人たちに共鳴し過ぎてしまうことがあるの。それが苦しくて、居心地が悪く感じると、心にもないことを言ってしまったり、我を忘れて手を出してしまうのよ。私の前で別人になるんじゃなくて、私の前の君が、本来の姿なんだよ」

ミヨの答えはあまり理解できなかったのだが、俺よりも十センチは小さいはずのミヨが、とてつもなく大きく見えた。なんでこいつは、俺よりも俺のことを知っているのだろう。一体どういう生活をしたら、こんなことを言えるようになるのだろう。同い年で、同じ小学校に通っているのに、この差はいったい何なのだろう。

あの頃、俺たちは毎日一緒に下校していた。やんちゃな俺と、大人しいミヨ。同級生からは不思議な目で見られていただろう。学校から家までの数十分間、春夏秋冬、雨の日も風の日も、毎日毎日何を話していたのか、今となっては思い出すのが難しい。ただ、学校で嫌なことがあっても、ミヨと一緒に帰り道を歩いていると、家に着く頃には気持ちがリセットされていた。どちらかというと、俺の方がミヨを必要としていたのだ。

ミヨが学校を休んだ日は、一日がとてつもなく長く感じられた。休み時間になる度に、同級生にちょっかいを出す。授業中には、ことあるごとに先生に反抗する。六時限目が終わる頃にはヘトヘトになっていて、帰り際に先生にミヨの分のプリントを渡されると、学校からミヨの家まで全力で駆けていた。ミヨのお母さんにプリントを渡すと、決まって「良かったらミヨに会っていく?」と言われ、呼吸を整えてから家に上がらせてもらっていた。ミヨはどれだけ熱が出ていても、「ありがとう」と笑ってくれた。その笑顔と言葉で、俺は全身の力が抜け、その場にへたりと倒れこむのだった。

通知表には必ず「落ち着きがない」と書かれていた。親も俺のことをずいぶん心配していたようだ。俺もすぐにイライラする自分が嫌だった。ミヨに言われた通り、俺はまわりの影響を受けすぎているだけなのかもしれない。だけどミヨがいてくれる限り、俺は自分を保っていられる。いつまで一緒にいられるかは分からないけど、少なくとも中学までは一緒にいられるだろう。それまでに、ミヨに頼らなくてもいいように成長できていればいいのだ。あと四年……やんちゃな俺がどこまで成長できるかな。ミヨ、応援してくれよな。「うん、分かった」、驚いた。隣を歩いていたミヨが、俺の心の声に返事をしたのだ。

ミヨの転校が決まったのは突然だった。一学期の終業式に突然知らされたのだ。当たり前のように続くと思っていた、ミヨと一緒の下校。いつものように、ミヨの少し前を歩く俺。今日で最後なんだと分かっていながら、何も言い出せなかった。夏の午後。水を張った田んぼに光が反射して眩しい。この田んぼがずっと続いていればいいのに。家なんかなくなっていればいいのに。なんてことを考えていたら、あっという間にミヨの家の前に着いてしまった。お別れの言葉も言い出せず、険しい顔でうつむいていると、ミヨが俺の手を握ってきた。

ミヨの右手と、俺の右手。上から見るとアルファベットの S のような形。「はい。これで私と君は繋がったよ。どこに行っても、この手の感触を忘れないで」そう言うと、ミヨは「バイバイ」と手を振り、あっさり家に入り玄関の扉を閉めてしまった。何年も一緒だったのに、素っ気ない。少し淋しくなりながら、そういえばミヨに触れたのは初めてだったことに気づく。俺の右手は、これまでにないくらい熱く、力がみなぎっているようだった。決して夏の暑さのせいだけじゃなかった。

「ミヨが施設に入れられた」二学期になるとこんな噂が流れた。嘘か本当かは分からないが、これ以降ミヨの話は誰の口からも聞かなくなった。俺は相変わらずやんちゃだったけど、中学生になり高校受験を控える頃になると、それまで勉強をしなかった分、遅れを取り戻そうと学校でも家でも塾でもひたすら勉強をしていた。同級生と将来の話をしたり、遅くまで勉強をして深夜ラジオを聞くようになり、様々な人たちの意見を聞くようになると、自然と俺の心のバランスは安定した。ミヨのことを忘れはしなかったが、次第に思い出す機会がなくなっていった。

俺は東京の大学に通うことになり、一人暮らしを始めた。大学三年生のとき、小学校の同窓会が開かれ、ミヨが結婚したらしいという噂を聞いた。俺は大手の家電量販店に勤めることになり、入社五年目に同僚の女性と結婚した。子宝に恵まれ、三人の子供が成人になるのを見届け、長女は嫁ぎ、長男と次男は結婚して、それぞれマンションと一軒家に住んでいる。賑やかだった我が家が静かになったのは、俺が五十五歳になってからだ。妻と二人で過ごす日々。それなりの家に住み、それなりの収入を得、とくに不満のない生活だった。

定年を過ぎ、俺と妻はすっかり老人になった。ソファーに深く腰かけ、縁側の盆栽を眺める。ふとミヨを思い出す。もしもあいつと結婚していたら、今頃どんな生活を送っていただろう……? 「あなた、どうしたの?」愛すべき妻が呼びかける。「ああ、何でもない」どうやら年齢的にボケていないか心配しているのだろう。八十歳になり、妻は先に天国へ行った。本当に一人ぼっちになってしまった。一人で歩けるし、料理もできるが、遠出は厳しくなっていた。ああ、ミヨ。君は今、どこにいる? 亡くなっていてもおかしくない年齢だ。だが、もう一度だけ君に会いたい。ミヨ、ミヨ。俺は目を閉じ、右手をゆっくりと上げ、ミヨの右手をイメージする。あの時の感触を思い出せるか自信がなかった。なにせ七十年も前のことだ。ミヨ、あの温かい手。小さくてもすべてを包み込むような存在感を持つ、不思議な手。ミヨ、ミヨ――。

右手に確かな感触があった。目を開けると、すっかり歳をとったミヨがいた。七十年前と同じように、「ただいま」と笑った。「ずっと待っていたんだよ。でも頼りがないのは元気な証拠。君のことはちっとも心配していなかった。それに私はもう役割を終えたから、あと数日で逝くところだった。でも、その前に君に会うことは知っていたから、こうしてまた会えたというわけ」転校したのがまるでつい先日のことのように話すミヨ。相変わらずはっきり、ゆっくりと話す。その声は、俺の耳から全身、そして心から魂の奥へと響いていることを実感した。俺は今、人生で一番輝いている。ミヨと同じ時間と空間を共有しているこの瞬間が、俺にとってのすべて。俺の心は満たされ、喜びや感謝の気持ちで溢れそうになった。こぼれてしまっては勿体無いからと、ミヨにもこの気持ちを伝えた。右手を通して、すべてが伝わった。ミヨが何を考えているのかも分かった。もう言葉は必要としなかった。

やっと分かったよ。ミヨが小さい頃に話していた意味が。こういうことなんだね。俺、バカだね。こんな歳になるまで分からなかった。ミヨはずっと俺の中にいてくれたんだね。ありがとう、本当にありがとう。ミヨはゆっくりと頷き、笑いながら涙を流していた。俺もつられて泣いた。この世のありとあらゆる良いもの・輝くもの・温かいものに包まれながら、俺とミヨは同じことを考えていた。既に言語ではなく感覚で会話をしていた。今の俺たちは空だって飛べる。ミヨの背中にも、俺の背中にも、光の羽が生えていた。俺たちは手をつないだまま、スカイダイビングのように宙に浮かぶと、俺たちは驚くべきスピードで天に向かった。途中、俺の人生の回想が始まった。ミヨも同じ体験をしているようだった。

七十、妻と世界中を巡った。
六十、仕事を辞めた。
五十、初孫ができた。
四十、マイホームを購入した。
三十、長男が生まれた。
二十、初めて恋人ができた。
十、ミヨが転校した。
〇、俺たちが生まれた。

俺たちが生まれた日、それは初めて光を見る日のこと。〇歳の向こうへ行ってしまったら、俺たちは闇の中へ戻るのだろうか。ブラックホールのような光が一切届かない闇の中へ。いつの間にかミヨの手の感触はなくなっていた。不安がこみあげる。しかし、その感情は一瞬に俺の体を突き抜けていった。悲しみや苦しみも同じように突き抜けていった。闇の向こうに何があるのだろう。妬み、嫉み。様々な感情の波を乗り越え、俺はもはや怖いものがなくなっていた。時間の感覚は既になかった。待ちに待った喜びが全身を突き抜けると、闇の向こうに光が見えた。光の向こうにはミヨがいた。いや、ミヨだけではない。俺の両親も、妻も、祖父母も、みんな俺の帰りを待っていてくれた。「おかえり」と言わんばかりに。ああ、早く皆に会いたい。

ちょ、ちょっと待った。俺はペンを取り出し、この体験を文字に起こすことにした。この紙も、ペンも、実在するのかは分からない。こんな夢のような体験、覚めたら忘れてしまうだろう。思い出そうとすればするほど、忘れてしまうだろう。だからこうして、記録に残す。ここがどこだか分からない。あの世? それとも、俺、ボケただけ? もうどっちでも良くなった。ミヨたちが笑っている。「相変わらずねぇ」これは母の声。だんだん現実を思い出せなくなってきた。そろそろタイムリミットか。よし、この紙を、丸めて、あれ、なんだか紙くずみたいになっちゃったけど、まあいいや、とにかくこれを、地球に向かって、えい! あの頃のミヨに届け!(了)