欲を知るため旅に出かけた男

今日も花屋は多種多様な花で満たされている。店主らしき男が外で水まきをしている。夏の日差しは強いが、店主らしき男は笑顔だ。
花屋の店主であるギンジは、子供の頃から花屋になるのが夢だった。二十歳の時に念願の花屋をオープンさせ、二年目にアルバイトとして入った女性と結婚した。結婚後は夫婦で店を切り盛りし、度重なる閉店の危機を乗り越えて、今年で三十周年を迎えた。地元に愛される花屋として有名で、新聞や雑誌に度々掲載されている。
一人娘は大学を卒業し、この春より就職のため家を出た。娘が家を出たとき、妻とどんな暮らしを送ろうかと考えたが、あまり先のことがイメージできなかった。男は(ずっと仕事に打ち込んで来たのだから当然か……)と思い、三十年目にして初めて仕事以外のことも考えるようになった。
ギンジは花屋の仕事に生き甲斐を感じていた。大変なことはたくさんあったが、オープンから三十年が経った今、何もかもが満たされているようであった。しかし、ギンジは心のどこかで微かな不安を感じていた。周囲から「君は欲がなさすぎる」と言われることが多かったからだ。欲といわれても、ぴんと来ない。愛すべき家族がいて、やりたい仕事をしていて、これ以上何を望めというのだろう。
ギンジは物事を突き詰めて考える性格である。突き詰めると、欲がないことに対する劣等感のようなものが、長い年月をかけて大きくなっていることに気づいた。それは普段意識していないものだが、心のどこかでもやもやと燻っていた。(気づくべきじゃなかった)と後悔しそうになったが、ギンジの性格上、もやもやが晴れないと仕事に支障が出てしまう。考えに考え、「一週間でいい、一人旅をさせてほしい」と妻に伝えた。妻は「娘が出て行って生き甲斐をなくしてしまったんじゃないかと心配だったわ。あなたは三十年間、一度も休んでいないもの。店のことは私に任せて、どうぞ行ってらっしゃい」と言ってくれた。

翌日から、ギンジは欲を知るための旅に出た。車は使わず、歩くことに決めていた。花屋が遠ざかるに連れ、仕事のことが頭から離れていった。妻は見えなくなるまで手を振ってくれていた。まずはどこへ向かおうか。その前に、欲とはなんなのかを考えよう。当てもなく歩きながら、まずは睡眠欲が頭に浮かんだ。
花屋にとって、母の日ほど忙しい日はない。数日前から徹夜が続くことも多い。母の日が終わると、夫婦そろって死んだように眠ったものだった。睡眠欲は一定の時間であればコントロールできるが、永遠に眠らないことは人間である以上不可能である。睡眠欲に関しては旅で見つけるものではないと判断した。観光地の旅館に泊まり、温泉に入ってぐっすり眠るような旅ではないのだ。

ギンジは隣町を歩いていた。睡眠欲の他には、どんな欲があるだろう。そういえば三大欲というのを聞いたことがある。睡眠欲と、食欲と、性欲だ。考えているうち、腹が鳴った。食欲は、ギンジにとっては睡眠欲と同じであった。一定の時間であればコントロールできるが、永遠に食べないことは人間である以上不可能である。よって、食欲に関しても旅で見つけるものではないと判断した。世界各国の最もおいしい料理を知るための、食べ歩きの旅ではないのだ。

ギンジはさらに隣町を歩いていた。食欲の次は、性欲か。性欲は、ギンジにとっては妻との愛のあるセックスがあれば十分だった。快楽のために女を買ったり、体だけの関係を持ったりすることが理解できなかった。よって、性欲に関しても旅で見つけるものではないと判断した。世界各国のいかがわしい町を徘徊し、夜の帝王になる旅ではないのだ。

ギンジは昼夜問わず、寝食を気にせず歩き続けた。旅に出て五日目の明け方、大きな湖に辿り着いた。膝のあたりまで水に浸かり、じゃぶじゃぶと歩いていると、次第に日が昇ってきた。湖面に映り込む朝焼けがあまりに綺麗で、ギンジは思わず足を止めた。五日目にして、初めて足を止めたのだ。しばらく朝焼けに見とれていると、足腰が猛烈に痛むことに気づいた。腫れたふくらはぎや腿が熱を帯び、湖水の冷たさが染みた。次に猛烈な空腹に気づき、胃液がこみ上げてきた。さらに全く寝ていなかったことに気づくと、ギンジは意識を失い、その場に倒れ込んでしまった。

——どれくらい眠っただろうか。目を覚ますと、ギンジは見覚えのない場所にいた。湖畔のようだ。目をこらすと遠くにぼんやりと陸地が見える。ギンジは(おそらく眠っている間に湖の中の島に流されたのだろう)と考えると同時に、(いよいよ旅らしくなってきた)とわくわくした気持ちになった。
島を歩くと、島の中央あたりに古びた小屋があった。こんなところに人がいるのだろうか。小屋のドアを開けると、思わずぎょっとした。薄暗い室内の奥から、顔中が皺で埋め尽くされたような背の低い老婆がじっとこちらを見つめていたからだ。
「あ、あの。勝手に入ってしまってすみません。ここはどういう場所なのでしょうか?」
老婆はしばらく沈黙し、ギンジを見つめていた。目が見開いたかと思うと目を伏せ、深いため息をついた。二回目のため息をつくと、ゆっくり口を開いた。
「ここはお前が望む答えがある場所さ。お前は欲がないのに、欲を知りたがっている。知る方法はひとつ。実際に欲を経験することさ。だがお前の性格では現実世界で経験することは難しいだろうね。だからこれからお前の知らないもうひとつの世界で、欲を経験してくるといい。別世界だから、お前の家族にばれることは絶対にないから安心しな」
老婆は言い終えると、奥の扉に目をやった。
「あそこの扉を開けば、お前が望むものが見つかるだろう。ただし、欲を一通り経験しなければ帰ってこれないから気をつけな」
ギンジは躊躇ったが、ここにしか答えはないと確信し、扉を開けた。
「おばあさん。この先のことはよく分かりませんが、もし戻らなかったら、私の妻と子供によろしく伝えてください。それでは」
老婆は笑みと悲しみが入り交じったような表情でゆっくりと頷いた。

「王様、どうか起きてくださいませ。王様、目をお覚ましください」
誰かの声に呼ばれ、目を覚ます。側近らしき男が心配そうにギンジを見つめていた。
「ああ、良かった。五日前に倒れて以来、目を覚まさないので、どうなることかと思いました。本当に良かった」
ギンジは自分の置かれた状況が把握できなかったが、どうやらどこかの王様らしい。しかも五日間も寝ていたとは。たしかに喉が乾くし、ひどく頭が重い。ギンジは側近らしき男に、記憶がなくなっていることを伝えた。
「ああ、なんということ。時間が経てば思い出されるかも知れませんが、分かりました。私がご説明差し上げます」
側近は丁寧にギンジの立場について話してくれた。ギンジは独裁国家と呼ばれるある国の王であり、絶対的な権力と軍事力を持っていた。ギンジの一言で法律を変えることはもちろん、人の生死さえも思いのままであった。世界中の一流料理人が常駐し、いつでも最高の料理を食べられる。寝室の側には常に美女たちが待期しており、その気になれば国民的アイドルや大女優と夜を共にすることもできた。闇社会とも深く繋がっており、麻薬や覚醒剤はトン単位のストックがあった。メディアはすべてギンジの傀儡であり、ギンジにとって都合の悪いことは一切報道されなかった。そのため、他国からは独裁国家と呼ばれながらも、国民からの支持は圧倒的に高かった。
ギンジは自分の立場を聞いて愕然とした。花屋だった頃とはあまりに違う世界だった。別世界にもほどがある。今すぐ元の世界に戻りたかったが、帰り方が分からない。老婆の「欲を一通り経験しなければ帰ってこれない」という言葉を思い出した。まあいい、どうせ夢のような世界なのだ。現実世界ではできなかった、一通りの欲を満たしてみようじゃないか。独裁国家の王という立場。思い切り偉そうに、横柄な態度になろう。現実世界ではできないから、これくらいは構わないだろう。ギンジは側近に言った。
「おい、私は長く寝過ぎて腹が減っている。世界一うまい料理をよこせ」
食卓にはただちに世界中のあらゆる料理が並べられた。どれもがギンジがこれまで味わったことのないものだった。うまい、うますぎる。妻の料理より何倍もうまい。ギンジは興奮した。
「次は酒だ。世界一うまい酒をよこせ」
食卓にはただちに世界中のあらゆる酒が並べられた。銘酒と呼ばれるものほど水に近いという話を聞いたことがあるが、本当だった。喉が渇いていたこともあり、いくらでも酒が飲めた。食欲を意識したことはなかったが、世界一うまいものは、これほどまでに格別なのか。ギンジは一生分の食欲が満たされたような気になった。
これまでの人生であまり酒を飲まなかったギンジは、酔っ払い、とても良い気分になっていた。昔から羽目を外すことができなかったギンジは、別世界にいることも相まって、欲望の限りを尽くそうと決心した。これは欲を知るためであり、愛すべき家族の元に帰るためでもあるのだ。
寝室に戻ると、見たこともないような美女たちが出迎えた。「もう少し飲まれますか? それとも……」美女たちの艶めかしい首筋やすらりとした足を見ていたら、ギンジの理性のたがが外れた。
「決まっているだろう。お前たち全員の相手をしてやろう」
美女たちは歓喜し、ギンジは狂ったように美女たちと交わった。手の届かないと思っていた美女を思いのままにできる征服感に酔いしれていた。妻とのセックスより何倍も気持ち良い。快楽に溺れるとは、このことを言うのか。ギンジは一生分の性欲が満たされたような気になった。
疲れ果てて眠ろうとすると、美女が耳元で囁く。「王様、今夜はいつものあれはされないのですか?」よく分からないが、きっと気持ち良いものなのだろう。
「もちろん、するとも」
美女が指をならすと、側近が寝室に入ってきた。
「王様、この薬を一錠ずつです。これを吸えば快楽が十倍になり、眠らなくても平気になります。ただしそれ以上は命に関わりますので、くれぐれも飲まれませんように」
美女は錠剤を慣れた手つきで砕いて器具にセットし、鼻から吸引した。ギンジも同じように吸引した。しばらくすると、急に酔いが醒め、周囲が静かになった。美女の声が脳内に直接響くように聞こえ、言葉の一つ一つが全身を駆け巡り、あらゆる刺激が快楽になった。美女たちと何度目か分からないくらいの回数を交わり、ギンジは何度も絶叫し、意識を失いそうになった。明け方になり、昼過ぎになり、やがて日が暮れた。薬が切れたのか、異常な眠気が襲ってきた。薄れゆく意識の中で、ギンジはこれ以上の欲はもうないだろう。このまま眠れば、きっと現実世界に戻っていることだろうと思った。

翌朝目が覚めると、ギンジは美女に囲まれていた。「おはようございます。お食事にされますか? それとも……」ギンジは現実世界に戻っていないことに疑問を抱く間もなく、「決まっているだろう! 昨晩の続きだ。薬をよこせ!」と、美女たちをベッドに招き、錠剤を砕いて吸引し、朝から何度も絶叫した。
事が終わると、食卓へ向かった。「世界の一流料理人たちよ。昨日よりもっとうまいものを出せ。昨日よりまずかったらこの場で死刑に処する」世界の一流料理人たちは戸惑ったが、王の命令とあれば従うほかなかった。ほとんどのコックがその場で処刑され、ギンジはそれを見て腹を抱えて笑った。
ギンジはコックの死体を見ながら料理を食べ、銘酒を次々と飲み干した。次第に目が据わり、意識が朦朧とし始めた。ギンジは死体を片付けるよう側近に命じ、寝室に戻った。またも美女たちと交わりながら、薬を十錠砕きながら言った。「一錠で快楽が十倍なら、十錠で百倍になるだろう。試してみようではないか」と美女に言った。
「王様、それはいけませんわ。私は構いませんが、王様はやってはなりません。本当に死んでしまいます。国民が悲しみますわ」
「俺に指図するのか!」
ギンジは美女を引っぱたいた。
「俺が死んで国民が悲しむならば、俺と一緒に死ねれば本望だろう。側近よ、一時間後に世界を滅ぼせる分だけのミサイルを発射しろ。いいな、これは絶対命令だ!」
側近は命令通りにミサイルの発射予約を済ませると、その場で自害した。ギンジは十錠分の粉を器具にセットし、吸引した。美女も泣きながら吸引した。しばらくすると、快楽の波が訪れた。快楽の波は数十秒置きからどんどん短くなり、五秒置き、二秒置き、一秒置き、やがて快楽が止まらなくなった。快楽に溺れていると、次第に肉体と空気の境目がなくなり、ただそこにいるだけで快楽が押し寄せてきた。美女に触れているかどうかも分からなかったが、時折残像のように恍惚とした表情の美女の顔が映った。まるで天国のようだ。ミサイルが発射され、爆発音が鳴り響いていた。これですべてが終わる。真っ白な空間の中、側近や美女たち、国民と共に天に向かった。あらゆる悩みも、しがらみもない。これこそが欲の最終地点だ。さあ、現実世界へ帰ろう——。

目が覚めると、目の前には老婆がいた。
「どうだったかね?」
ギンジは頭の中が真っ白だった。長い沈黙の後、今までの体験を思い返していた。自らの非人道的な行為。例え別世界の出来事とはいえ、許されることではない。強い後悔の念が押し寄せ、ギンジは嗚咽した。
「私は、とんでもないことをしてしまいました。快楽に溺れ、世界を滅ぼしました。決して許されることではありません。家族の元へ帰るなど考えられません。私は現実世界に戻る資格はありません」
ほう、と老婆は唸った。
「別世界での出来事は夢のようなものだ。気にしなくても良かろう。ただ、欲というものが嫌というほど理解できただろう。欲が満たされるのは一瞬だけ。すぐにまた足りなくなって、より強い欲が生まれ、より強い刺激で満たそうとする。より強い刺激は、やがて度を超えるようになり、自分や他人を傷つけるようになる。これの繰り返しだ」
ギンジは目をつぶり、頷いた。
「おばあさん。欲とは、足りないものを求めることなのですね。たしかに、世界一おいしい料理を食べても、その場では満たされますが、すぐによりおいしいものを求めるようになりました。性欲に関しても同様です。本当に……嫌というほど理解できました。ありがとうございます」
老婆は笑う。
「その通り。多くの人は、満たされていることに気づかず、不満を探し、欲にとらわれてしまう。しかしお前は、満たされていることに気づいている。仕事に生き甲斐を感じ、実際に花と共に笑顔を届けている。人を幸せにしている。それ以上何を望むというんだい?」
ギンジもつられて笑う。
「返す言葉もありません。私の花屋はこれまで年中無休でしたから、『満たされていることに気づいている』ことに気づけなかったようです。オープンから三十年を迎えたことですし、これからは定休日を設け、体と心を休める日を作ろうと思います」
「それがよかろう。花は、野原でもコンクリートの隙間でも、どんな場所でも生き生きと咲いているだろう。花には欲がないからだ。花は踏みつぶされても、切られても、何も言わない。ただただそこに咲いていること、生きていることを楽しんでいる。だから花は人を笑顔にするし、花が近くにあると癒やされるのだよ。お前は既に花のような生き方ができている。『欲がない』などと他人から言われることがあるかもしれないが、それはなかなか真似できないこと。大事にするといいさ」
ギンジは老婆にお礼を言い、小屋を出た。島の湖畔まで歩くと、渡し船があった。船頭はガイコツだったが、もはや驚かなかった。
「向こう岸まで戻りなさるかね?」
「はい。戻ります!」
ギンジは力強い口調で答えた。

今日も花屋は多種多様な花で満たされている。店主のギンジが外で水まきをしている。夏の日差しは強いが、ギンジは笑顔だ。
「あなた、なんだか今日はいつもに増して元気ね」
愛すべき妻がいる。娘がいる。子供の頃からの夢だった花屋として生計を立て、花と共に笑顔を届けている。ギンジの人生には、何も不満がなかった。不満がないことに不安を感じてはいけない。あのおばあさんの言う通りだった。空を見上げると、見たこともないような快晴だった。そういえば最近空を見ることも少なくなっていたな。心にゆとりがなくなっていたのかもしれない。ギンジはにこっと笑い、妻にこう言った。
「明日から一週間、お客さんには申し訳ないが、臨時休業にしよう。それから週に一度は定休日にしよう。一人にしてすまなかった。これから二人で旅に出かけよう」

妻は突然の提案に驚いたが、笑顔で頷いた。