大人のテキストサイトとSNSに惹かれていた、あの頃のこと(あるいはあの頃の大人の年齢になった私がいま思うこと)

「ブログ再開」の記事を書きながら思い出したことがある。それは、私がかつて読んでいたテキストサイトのこと。真っ黒な背景が印象的だった。40歳くらいの男性による大人っぽい語り口で、随所に親父ギャグが散りばめられており、何かを諦めているかのような儚さがあり、優しさや温かさもあり、魅力的な文体であった。そのサイトの文体は「である調」だった。

2000年当時は、「誰に届いているか分からない。けれどもこのインターネットという媒体を通じて、誰かと繋がりたい、届けたい。届くかな、届いているよね? えっ、うそ、届いていない? まあ、それでもいいか…。とにかく私は、文章を書き続けるのだよ…」そういう人がそれなりに多かった気がする。

当時のテキストサイトは、PCの画面越しから伝わる熱意がすごかった。昨今の検索上位に見られるような機械的な文章は皆無だった。当時はADSLが普及し始めた頃で、無制限でネットが使える環境は整っていなかった。ISDNか、ダイヤルアップデ23時を待ってテレホーダイの時間に更新していたような時代である。相当な覚悟がなければ、サイトの更新などできなかった。

敷居が低くなれば、覚悟のない人が集まる。これは当然である。mixiだって、twitterだって、facebookだって、リリース当初は楽しかった。mixiの初期は知り合いの紹介だけだったから、mixiをやっているというだけで、不思議な安心感があったものだ。mixiで繋がっているというだけで、何人かと会ったことがあるが、怪しい人など全然いなくて、わいわいお酒を飲みながら会話を楽しんだものだ。それがユーザーが増えると、出会い目的のチャラついた輩が増え、治安が悪くなる。これは今も昔も変わらない。

Twitterも初期は楽しかった。どんなサービスでも、初期は「誰かと繋がりたい」という願望が強い。趣味の合う人同士が繋がって、リプライを送り合う。それだけで世界が変わるくらい楽しかった。「Twitterこそ未来だ!」と本気で思ったものだ。しかし、現状はフェイクニュースに溢れ、クレーマーの温床となってしまった。悲しいことである。

Facebookも同様で、昨今はユーザー離れが著しく、私のタイムラインにはほとんど知らない人の投稿が並んでいる有様。つまらないを通り越して、「無」である。もともとFacebookが好きではなかったこともあり、悲しくもないのだが。

あの頃、大人に夢中で文章を書かせていた、「インターネットがもたらす情熱」を呼び戻そう。「あの頃の大人」だった年齢に、私はなっているのだから。何らかの縁でこのサイトにたどり着いた若者がいるならば、その人たちの心のどこかに引っかかるような文章を届けたい。文章をあまり書かなくなって久しいが、やはり子供や若者に届く言葉こそが本物だと思う。

物事の始まりは、いつも希望に満ちている。ブログを再開するのだから、情熱と希望を持って続けていこう。