大阪北部地震と、「祈ること」の重要性

大阪北部地震が発生

2018年6月18日、午前7時58分ごろ、大阪府北部で最大震度6弱の地震が発生した。ぼくは洗面所で頭を洗い終え、髪の毛をドライヤーで乾かしている最中だった。髪を乾かし、居間に戻ると、父が「地震があったなぁ」と言う。まったく気が付かなかった。まもなくテレビから地震速報が流れる。

「震度6……!?」

大変なことだ。ぼくが住んでいる地域でも、震度3くらいの地震があったようだ。通勤ラッシュの時間帯。大阪の都心部が大混乱に陥っていることは想像にかたくなかった。

大地震が発生すると、いつも思う。「被災地外に住んでいるぼくたちは、何をするべきなのだろうか?」と。SNSにはさまざまな情報が飛び交う。情報が溢れすぎていて、読めば読むほど何をすれば良いのか分からなくなる。

日常を送ったほうが良い? 普通に仕事をしたほうが良い? そうかもしれない。そうだと思う。でも、本当にそれだけで良いのだろうか? 仕事があるし、体を被災地に向かわせる余裕はない。募金はしている。でも、それだけでは、心が落ち着かない。この感覚は、意外と多くの人が持っているのではないだろうか。

ぼくたちは何をするべきだろうか?

ぼくはいつからか、祈ることにした。なぜそうしたのかは分からないが、それ以外に思いつかなかったのだ。悲惨な事件が起きたり、国内外で災害が発生したとき、祈ることで、自分自身が癒される気がした。そして、「祈りは必ず届いている!」という、言葉にはならない確信が得られるようになった。

それでは、どんな風に祈れば良いのだろうか?

決まりはないが、祈る間は日常を忘れるべきである。イライラした気分では祈ることなどできない。なるべく前向きな言葉が良いだろう。言葉が思いつかなければ、過去に愛情を受けたときのことや、幸せに感じたときのことを思い出して、心をほぐしてから、被災地に向けて光を届けるイメージをするのも良いだろう。

「地震による被害が最小限におさまりますように」
「二次災害が発生しませんように」
「被災地のみなさんが、安心して眠れるようになる日が早く訪れますように」
「愛と希望の光が、被災地に集まりますように」

祈りの言葉はいくらでも思い浮かぶだろう。

「祈ること」の重要性

「祈り」というと、宗教的な行為と思われるかもしれない。しかし、祈ることは、宗教とは関係なく、人間が持つ特別な能力だと思う。ぼくは宗教に入っていないが、祈ることの重要性を感じている。

子供でも、老人でも、男でも、女でも、手がなくても、足がなくても、障碍を持っていても、お金がなくても、病院のベッドでも、山奥でも、部屋でも、お風呂でも、トイレの中でも、休憩時間でも……祈りは誰にでもできる善意の行動である。

一日の「1/1440」だけでも祈りを

どれだけ忙しい人でも、1分間は祈る時間を確保できるはず。1日は1440分。そのうちの、ほんの1分間だけでも、祈りの時間にあててみよう。どうしても難しければ、便座に座っている間の1分間でも良いだろう。「トイレで祈るなんて、不謹慎では?」と思われるかもしれないが、祈らないよりは、例え便座の上からでも祈ったほうが、よっぽど意味がある。(ただし、お尻は拭いてからにしよう)

ぼくが被災地で不安な日々を送っていたとしたら、誰がどこから祈っているかなんて気にしない。世界中のどこかで誰かが、被災地のことを意識してくれているだけで嬉しいのだ。

あなたが祈るとき、あらゆる制限や壁が消えていることに気づくだろう。祈っている間は、差別も、貧困も、現状への不安も不満も、影を潜めているのだ。そのような状態の人が増えれば増えるほど、世界は次第に良くなっていくことだろう。

おわりに

災害や事件が発生すると、SNSで「ご冥福をお祈りします」という一文をよく見かける。それが本心ならば何も問題はないのだが、わざわざSNSに書く必要があるのか疑問である。本当にご冥福をお祈りしているのならば、その一文を書く前に、すでにお祈りを終えているはずである。

著名人ならば、立場上そのような一文は必要であろう。しかし、そうでない人たちが、とりあえずご冥福をお祈りしていることを公の場でアピールする理由はなんだろうか? どうしてもうがった見方をしてしまうのは、ぼくだけだろうか。

もしもあなたが、SNSで「ご冥福をお祈りします」の一文を書く予定であるならば、その時間を使って、災害で犠牲になった人々の冥福をお祈りしてほしい。実際に冥福を祈っていれば、無理にSNSで地震について触れる必要はないのである。

最後は余談になってしまったが、この記事が誰かの何かになれば幸いである。