エスカレーターの違和感

その日は渋谷の百貨店でウィンドウショッピングを楽しんでいた。いつか買おう買おうと言いつつ、なかなか実現できずにいるル・クルーゼの鍋、お弁当用の漆器、圧力釜やキッチン用品一式……。魅力的な商品を見て回るのは楽しいのだが、途中で疲れてしまい、根をあげるのが常である。

けれども、せっかくの休日。デパート巡りを楽しみたい。エレベーターは混むから、エスカレーターで階を移動しよう。いざエスカレーターに乗ろうとすると、いつも同じ不快感を味わうことになる。不快感とまでは言わないかもしれない。「違和感」とでも呼ぼうか。東京で暮らすうち、大抵のことには慣れてし まったが、ただ一つ、「エスカレーターの違和感」にだけは、未だ慣れないでいる。もっとも、慣れようなんてそもそも思っていないのだが。

さて、その違和感というのは、「誰もがエスカレーターの左側に寄ること」に他ならない。誰が決めた訳でもないのに、不思議と全員「左側」。そこに、得も言われぬ不健全さを感じるのである。どうしてそんなことになってしまったのだろう?

考えてみれば簡単なことだ。駅で使われているエスカレーターから、全ては始まったのである。

――さあ、この電車に乗らなければ遅刻確実。発車まであと 10秒、エスカレーターを駆け上がればギリギリ間に合うのに、嗚呼なんてこった、前を塞ぐカップルのせいで乗り遅れてしまった……チクショウ覚えていやが れ。紛争勃発。お前らの仲を引き裂いてやる。お前が悪い、私は悪くない。もう、見ていられない。

こういった争いが絶えないために、自然とどちらかに寄る習慣が誕生したのだろう。それが東京ではたまたま左だった、というわけ。だから、ほとんどの人は 「青信号になったら渡る」程度の、無意識下でエスカレーターに乗っているのだろう。でも、考えてみて欲しい。本来、エスカレーターというのは、両側を平等 に使うべきもの。でなければ、二人用である必要はなく、一人用の細いエスカレーターで十分なのだ。

エスカレーターに乗る若い家族の姿は美しい。子供の小さい手を、両親が両側からしっかりと握りしめる。本人たちも、見ている側にも、笑顔が溢れる。それなのに、最近はそんな温かい光景が見られなくなり、「ほら、邪魔だから左に寄りなさい」と、親が子供に言う始末。子供同士でも、「左に寄らな きゃいけないんだよ!」と、ありもしない規則を押しつける始末。一体、日本はどうなってしまったのか。いつから、そんな「不必要な気遣い」を、しなければならなくなってしまったのか。

駅で使われるエスカレーターならば、まだ理解はできる。一本乗り遅れたら、本数の多い都会とはいえ、その後の乗り換えに支障がでるし、何より仕事に間に合わなくなってしまう。しかし、駅以外ではどうだろう。百貨店やスーパーなどは、家族や友人が仲良く買い物を楽しむ場所であるはずだ。そんな所で、一体誰を先に通すつもりなのか。道を譲らなければ殴ってくるような怖い人が後ろから歩いてくるとでもいうのか。自分たちの会話を、団欒を犠牲にして、何が得られるというのか。

もう、そんなことは無意味だと認めるべきだ。勇気を出して、一歩右へ、歩みを進めてみようじゃないか。気が置けない人と、同じ目線で話せたとき、これまでの気遣いは何だったのだろうと、疑問に思うだろう。エスカレーターでどちらかに寄ってしまう人々というのは、「動かされている」ことに気付いていない。 見えない意志に、負けてしまっているのだ。自分の足で歩いているつもりなのだろうが、「これがマナーだから」と思いこんでしまったが最後、考える力を失っ てしまっているのだ。赤信号なのに、誰か一人信号無視をすると、それにつられてしまうくらい、意志を持たずに歩いているのだ。

大したことではないと思われるだろうか。しかし、こういった小さな積み重ねが、ストレスを生んでいることは間違いない。大体が無意味な行動である。無であれば、まだ良いのだが、その積み重なったストレスにより、誰かが傷つき、また傷つけられているとしたら、些細な問題とは言い切れないだろ う。見えないルールに縛られて、不自由さを訴える人々。与えられた枠の中で文句を言うよりも、まずは「身の回りの当たり前」を疑ってみてはどうだろう。と きには枠をはみ出して、自分たちの行動を客観的に覗いてみてはどうだろう。

エスカレーターの上でそんなことを考えていた。ふと後ろを振り返ると、後ろにはカップルが二人、仲良く手を繋いで並んでいた。それを見て、少しだけ心が和んだ。日本の未来は、まだ捨てたもんじゃないのかもしれない。自分の意志で歩ける人が、いなくならない限りは。