この愛はメッセージ

「人を愛する」ということが一体何を意味しているのか分からない。自分がこれまでの人生で、どれだけの人に愛されてきたのか、どれだけの人を愛してきたのか? 振り返ってみても曖昧過ぎて分からない。ただ、記憶を辿ると「あれは愛だったのかもしれない」という瞬間はあるのだが、それでも「かもしれない」 の域をでない。愛は絶対的で普遍的なもの、そして与えられるものではなく与えるものなのだ――そう昔から思ってきたけれど、22歳になった今でも、「“ああ、これが愛の形なんだ”とはっきりと実感したことがない」というのが現実だ。

親は変わらず子供である自分を愛し続けてくれている。それはこれから先も――恐らく死ぬまで、変わることがないだろう。それは信じることができる。親になることは、愛を知ることなのだろうか。自分がいつか親の立場になって、生涯変わらぬ愛情を子供に注ぎ続けることができたとしたら、それが愛の形なのだろ うか。「親の愛を信じる」とか「子供を愛し続ける」とか、そういう気持ちは他人じゃないという特別な関係だからこそ、成立し得るものなのだろう。そもそも全くの他人だったはずの恋人同士が「愛し合う」という行為はある意味とてつもなく脆い関係だと言える。

十年付き合ったって、一夜にしてその関係が全くの他人に戻ってしまうことだって有り得るし、明日になったら恋人と連絡を取ることが不可能になっているかもしれない――そんな危うい関係。好きになればなる程、相手の気持ちが自分に向いているかどうか不安になるし、その不安を少しでもなくして愛を感じたいが ために、恋人はなるべく多くの時間を共有しようとし、互いの心と体を求め合うのだろう。そんな「他人」である恋人と「これが愛かもしれない」という気持ちを「この人とだったらお互いに確かめ合い信じ合って育み合えるかもしれない」と思えたら、それは愛がある証拠と言えるだろうか。

愛について答えがあるならば、誰も悩んだり考えたり歌にしたりはしないだろう。それぞれの人生の中で、親や友人や恋人から受け取り、感じとって消化して、自分自身の「これが愛なのかもしれない」という、見返りを求めない裸の気持ちを、誰かに与えられるようになったとき――そのときが、愛について知ったと言えるときなのかもしれない。人の人生は一年だったり百年だったりするけれど、その中で見つけられれば――それが 例え死ぬ間際であっても――その人の一生は意味のあるものだった、と言えるのだろうか。

22年間生きて、結局「愛のない人生に意味はない」ということしか分からなかった。愛があれば、例え四歳で死んだとしても意味があるんだ。でも子供に愛が分かるのだろうか? いや、きっと赤ちゃんはどんな大人よりも愛を知っていて敏感なはず。だから幼少期に愛を与えられず、大人になってから苦労している人は大変だと思うからがんばって欲しいと思うし、そんな赤ちゃんを虐待して死に至らしめるような親は死んでほしいと思う。でも、虐待するような親は幼少期 に愛を満足にもらえなかった人間がほとんどだろうから――もしも自分がそういう立場であったら、我が子を殺してしまうことも有り得るかもしれなくて、そこら辺は何ともいえない。他人の気持ちなんて誰にも分からない。

たくさん恋をして、自分の気持ちと相手の気持ちに対してに誠実に生きていれば、愛について知ることができる日も遠くはないのかもしれない。どれだけ不器用でも、必死にその愛をメッセージにして伝えようとしている人が僕は好きだ。数年後、数十年後でもいいから、この愛をメッセージにして届けられるような人間になれたとしたら、これほど素敵なことはないだろう。愛を知ることは人生を知ることなんだと、そう信じて疑わない。まずは「人を愛する」ことから始めて みようか。どれだけ不器用でも構わないから。