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短編「ある流行作家の生涯」

男の頭の中で、大きなファンファーレが鳴り響いた。トランペットの音とともに、男の胸は高鳴っていた。
「いよいよだ。私の最後の作品が、いよいよ完結する。どんな結末になるのだろう。ああ、楽しみでならない」
男はコンピュータの前に座り、指先をキーボードに乗せたまま、目を閉じた。男の胸の高鳴りは、最高潮に達した。

男の名前は、ショージ・キモノ。50年前、新進気鋭の作家としてデビューした。1作目の『うす汚れた島国』では、現代社会の闇を痛快に風刺し、話題を呼んだ。続く『ミヨコ103歳』では、高齢化社会の恋愛事情を美しく描き、2作目にして早くも映画化がなされた。3作目の『天使と悪魔の果たし状』では、宗教と精神世界の矛盾を描き話題になったが、宗教団体からの圧力を受け、たちまち販売中止となった。この作品は、今なおプレミアがついており、インターネット通販では10万円以上で取引されている。

デビューから50年が経ち、すっかり年老いた男が書き始めようとしている物語は、記念すべき100作目である。男はこれまで現代小説、時代小説、風刺、恋愛、SF、ノンフィクション、ハードボイルド、ミステリー、コメディ、パロディ、ジュブナイル、さまざまな作風に挑戦してきた。90作目の小説を書き終えた頃、男は(100作目を書き終えたら、作家を引退しよう)と決意した。

99作目の『流行作家の老醜』は、自身の老化による憂いを描き、作者と共に年老いたファンに評価された。そしてついに100作目である。男の指先は震えていた。100作目に取りかかるからといって、動揺しているのではない。作家としてデビューする前から続いている、アルコール中毒によるものだった。

「手は震えているが、問題はない。私はこれまで99作の小説を書き上げてきたのだ。キーボードさえ打てれば、私はどれだけ酒を飲んでいても、小説が書けるのだ」

男は氷の張ったグラスにバーボンを並々と注ぎ、一気に飲み干した。これを何度も繰り返した。しばらくすると、男の目はとろんとし、目は半開きで、コンピュータの画面に焦点が合っていないようになった。
「もう少し……もう少しだ……」
男はさらにバーボンを飲み続けた。バーボンを飲んでは、指先をキーボードに乗せる。一文字も書かないまま、バーボンを飲む。まるで書く気がないように見える一連の作業が繰り返された。

10杯目のバーボンを飲んだ時、男の指先が動き始めた。
「来た……来たぞ……。さあ、これから物語が作られていくのだ」
男は他人事のように、動く指先を眺めていた。
「なるほど……面白い……面白いぞ。100作目にふさわしい、名作になる」
あらかじめ物語が決まっていたかのように、男の指先はするすると物語を紡いだ。10ページ、50ページ。あっという間に100ページ分の物語ができあがった。

「今回は300ページになるだろう。あと200ページ。さあ、酒との戦いだ」
男は酒を飲めば飲むほど小説が書ける作家である。逆にいえば、酒を飲まないと何も書けないのであった。指先が勝手に動き始めるまで飲み続け、その後は一度でも寝てしまうと、その物語は完結できなくなる。また、酒が切れても物語の続きが書けなくなる。酔い潰れず、書き続けられる適度な量の酒を飲む必要があった。男はこれまでの経験上、酔い潰れない程度の酒量を把握していたが、問題は自身の老化にあった。

老化により体力が衰え、アルコールの分解が遅くなっているのだろう。最近の作品では、物語の後半になるに連れ、酒を飲み続けることが苦しくなっていた。しかし、酒を飲んで物語を完成させなければ、その物語はボツになり、また最初からやり直すことになる。苦しくても飲み続けなければならないのであった。99作目は長編だったから危なかった。あと一杯酒を飲んでいたら、酒量の限界を超え、その場で死んでいたかもしれない。

200ページまで進んだ。あと100ページ。最後の作品に取り組んでいる責任感から、まだ意識を失わないでいる。210ページ、220ページ。一杯飲むごとに、物語が紡がれていく。
「面白い……最高だ。私の最高傑作になる。これが最後でいい。これを書き終えたら、死んでもいいくらいだ」

250ページ、260ページ。
「もう少し……もうすぐ結末だ。こんな面白い小説は初めてだ。どんなラストを見せてくれるのだろうか。私にはまったく分からない」

270ページ、280ページ。そして290ページまで書き終わった。
男の意識はぎりぎりで保たれていた。あらゆる感情はなくなり、最高傑作が誕生する瞬間に立ち会いたいという、作家としての純粋な感情のみが残っていた。
「まだ意識がある。心臓の鼓動は早いが、このまま倒れるほどではないだろう。さあ、酒を飲んで、ラストスパートだ」

298ページ、299ページ。
「よし……次で最後。あと1ページで完成だ」
キーボードに置いた指先が、ラスト1ページの文章を書き始めようとしたとき、男の中にこれまで一度も持つことのなかった感情が芽生えた。

「私はこれまで、ずっとこのような書き方をしてきた。ずっと何者かに書かされてきたような気分だ。だが、私の作家人生最後の作品。100作目も自分で書いたとは思えないのでは、私の作家人生とは一体なんだったのであろうか」

男は激昂し、指先をキーボードから離し、バーボンの瓶を投げ捨てた。
「馬鹿馬鹿しい、 実に馬鹿馬鹿しい。私の作家人生とは、いったいなんだったのだ」
そして男は決意した。
「300ページ目は、私が書くぞ。いいか、何者だか知らないが、私に小説を書かせているやつ。最後の最後くらいは、私に書かせてくれ。いや、書かせてもらうからな。この小説はここまで100点、パーフェクトの作品だ。これまでずっと書かせてやってきたのだから、最後くらいはいいだろう」

男は水を一気に飲み干し、外の空気を吸い、トイレに行き、再びコンピュータの前に座った。
「こんなに落ち着いた気持ちでコンピュータに向かうのは久々だ。さあ、最後の作品、フィナーレをどう飾ろうか。私の力で、最高傑作にふさわしい結末を書こうではないか」

どれくらいの時間が経っただろうか。男は一文字も書けないまま、朝を迎えた。
「なんてことだ。私がこれほどまでに書けないなんて。しかし、当然といえば当然だ。私は自分の力で一度も小説を書いたことがなかったのだ。だが、ラスト1ページで衝撃の事実が明らかになる作品なのに、結末が思い浮かばないのでは格好がつかない」

男は落ちていたバーボンの瓶を拾い、口をつけて一気に飲み干した。
「飲むしかない、この物語が完成するまで、飲み続けるしかない。私に小説を書かせていた何者かよ、すまない。悪かった。さっきのはなかったことにしてくれ。この物語が完成したら、私は死んでも構わない。あんたが死神なら、この老いぼれの命をくれてやる。だから、また酒を飲むから、どうか結末を教えてくれ!」

男はバーボンの瓶を数本持ってきて、瓶に口をつけて飲み始めた。しかし、キーボードに乗せた指先は動かない。
「私が悪かった。頼むよ……あと1ページだけでいいから、私の指先を動かしてくれ!」
男は泣きながら、さらに酒を煽った。床には10本以上のバーボンの瓶が転がっていた。

その時、男の頭の中で、大きなファンファーレが鳴り響いた。トランペットの音とともに、男の胸は高鳴っていた。
「いよいよだ。私の最後の作品が、いよいよ完結する。どんな結末になるのだろう。ああ、楽しみでならない」
男はコンピュータの前に座り、指先をキーボードに乗せたまま、目を閉じた。男の胸の高鳴りは、最高潮に達した。

男の遺体が発見されたのは、翌日のことだった。担当編集者が原稿を取りに男の家に行くと、玄関のドアが開いていた。不審に思い男の部屋に入ると、男はコンピュータのキーボードに手を置いたまま事切れていた。

こうしてショージ・キモノの100作目にして遺作となった小説『バッカスに殺される』は、大いに話題を呼んだ。

「ラストで答えが提示されていないのは、作者が伏線を回収できなかっただけ」
「いや、傑作だからこそ、あえて結末を読者の判断に委ねたのだ」
など、さまざまな議論が巻き起こった。

男の指先を動かしていたのは、誰だったのであろうか。男の別人格なのか、霊的な何者かなのか、はたまた酒の神であるバッカスだったのか。本当に死神だったのか。それは本人にすら知り得なかったのだから、第三者が答えを知ることはできない。

いずれにせよ、100作目の物語の結末を一番知りたかったのは、作者自身であることは間違いない。『バッカスに殺される』は、男の著書の中では最大のベストセラーとなり、死後とはいえ国民栄誉賞までもが与えられたのだから、悪くない生涯であったといえよう。