ヤシの木が風で揺れている。少女は海に行きたくなった。母に見つからないよう静かに家を抜け出し、裸足で海に向かった。少女の住む家は、潮風が吹き込む湾岸道路沿いにある。家の前の砂利道から湾岸道路に出て、道路を突っ切れば、ヤシの木の間から砂浜と海が見えてくる。
少女はお気に入りのヤシの木に手をかけながら、荒れた海を眺めていた。
「すごい……」
台風が近づいている。母からは「決して外に出てはダメよ」と釘を刺されていたが、これだけ海が近いのだから、見たくなるのも無理はない。少女の好奇心は、ときに母の忠告にも勝るのだ。
「わっ……」
高波が海岸に打ちつけ、飛沫が少女の顔を濡らした。いつもの海とはまるで違う。海が怒り狂っているように見えた。(この波に飲まれたら死んじゃうだろうな)と少女は思った。
目の前が一瞬明るくなり、直後に轟音が鳴り響いた。近くで雷が落ちたらしい。少女の好奇心は、塩をかけられたナメクジの如く縮こまり、押さえ込んでいた恐怖心が一気に拡がった。
少女はヤシの木を離れ、全速力で走った。湾岸道路を突っ切って、砂利道を駆け抜け、家の中へ飛び込んだ。玄関には母が立っていた。母は少女に倒れこむように、膝立ちになって少女を抱きかかえた。
「こんな時に海に行ってたのね? もう、心配したんだから……」
「ママ、ごめんなさい」
少女は息を切らしながら、母の胸の中でつぶやく。
「あら、足から血が出てる」
裸足で走ってきたため、足の裏に怪我をしたようだ。母は少女の足の傷口を水で洗い流し、よもぎで作った傷薬を塗り、ガーゼを当てた。
「これで大丈夫。今日はもう走っちゃダメだよ」
「うん、ママ。ありがとう」
「いい子ね。じゃあ、そろそろ夕ご飯に……きゃあ!」
再び雷が近くに落ち、轟音が鳴り響く。母はとっさに少女を強く抱きしめていた。
少女は、母の体が震えていることに気づいた。母はいつも頼りになるし、強そうに見える。ときどき鬼のように怖いときもある。でも、母にだって怖いときがあるのだ。母だって完璧じゃないのだ。少女は母の知らなかった一面に触れ、少し嬉しくなった。
「ママ、心配させてごめんね。でも……今日はどうしても海に行きたくて」
少女は小さな手で、母の頭をゆっくりと撫でた。
ヤシの木は、先ほどよりも強く揺れていた。少女にはヤシの木が踊っているように見え、おかしくなった。少女がヤシの木の真似をして体をくねらせると、母はさっきまで怖がっていたのが嘘のように、体を震わせて笑っていた。