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よなよなエール

 おじさんから連絡があったのは、自宅で一人酒をしている夕暮れ時だった。僕は音楽で食って行く夢を諦めたばかりで、長く続けていたバイトも辞め暇を持て余していた。
「カズちゃん、元気にしとる?」
 受話器の向こうから脳天気な声が響く。「ちゃん付け」で僕を呼ぶのは、おじさんだけだ。元気っす元気っす、と相槌を打っていると、
「実はな、俺、居酒屋始めたんや。めっちゃ小さい店やけどね」
 と言われ、少し驚いた。
「近所やから今から飲みにおいでよ。ビール一杯くらいサービスしたるで」
 というおいしい話を聞くと、僕はすぐさま家を出た。
 
「オープンおめでとっす」
 のれんをくぐるとすぐ目に入ったのは、おじさんの無精ひげだった。時間が早いせいか、客は僕だけだ。
「おっす、久しぶりやね」
 にっと笑うおじさんは、以前よりも若く見えた。
「ここ、本当に狭いすね……」
 椅子は六脚あるが、肩を寄せ合わないと六人は座れそうにない。L字型のカウンターが一つ、四畳半ほどのスペースにすっぽりと収まっており、そこにおじさんが見事にすっぽりと収まっている様子がおかしかった。
「カズちゃん、もう飲んできたんか? 顔、赤いで」
 自宅では缶ビールを二本開けていた。
「うん、少しだけ」
 そうかそうか、とおじさんは嬉しそうな顔をする。
「まだ、飲めるやろ? うちのビールはな、全部これなんや」
 差し出したのは、見慣れない絵柄の缶ビール。
「……何すかこれ? 初めて見たけど、うまいんすか」
 実はね、と前置きをしておじさんが言う。
「そこの三河屋さんで、これ扱っとってな。ちょっと高いんやけど、まとめて仕入れたら安くするっていうから、こいつに決めたんや」
 僕は缶のふたを開けた。ぷしゅ、と音がして、泡がこぽこぽと吹き出る。
「よなよなエールって言うんや」
 缶に口をつけ、喉まで流し込むと、強い苦みが舌を包んだ。
「コクはあるんすけど……正直、苦すぎっすね」
 僕は苦い顔でおじさんに言った。
「やっぱそう思う? まとめて仕入れたはいいんやけど、そいつが悩みでね。ビール通には人気らしいんやけど、ビール通はこんな店には来んやろうし」
 僕の返事は想定していたものだったのだろう、おじさんは眉をハの字にして笑った。
「次からは、別のビールに変えた方がいいんじゃないすかね」
 ダメ出している僕に、おじさんが「ほい、これお通し」と小皿を差し出す。切り干し大根と豚肉の煮物。汁っ気が多く薄味で、酒のつまみとしては物足りない。
「お通しって、いくらとるんすか?」
「今のところ、五百円」
 僕は呆れてため息をついた。おいしくない上に高い。これではリピーターは来ないだろう。あまりに先行き不安なので、突っ込みを入れたくなった。
「ちょっと、アドバイスしていいすか?」
 おじさんの返事を待つが早いか、僕は続けた。
「ここに六人座るのはきついと思うんで……。あの、立ち飲みにしたらどうっすか? 最近、流行りみたいだし」
 ほお、とおじさんが間抜けな声を発した。さらに続けた。
「そしたら、回転が早くなるんで。ビールは目一杯安くして、気軽な一杯飲み屋にしたらどうっすか。この辺り、そういう店ないし」
 ふむふむと、漫画みたいな相づちを打ちながら、おじさんは感心していた。
「さすがカズちゃん、ええこと言うね! ちょっと検討してみるわ。ありがとう」
 お礼を言われて気づいた。僕は偉そうにアドバイスなんてできる立場じゃない。僕は音楽の道を諦め、仕事もせず酒ばかり飲んでいる。おじさんは、小さくてもこうして立派に店を構えている。見た目は汚いけど、どっちが格好いいか選べと言ったら、僕が選ばれる理由は一つもないじゃないか。
 急に自分が恥ずかしくなり、
「すんません。なんか、偉そうなこと言って」
 と反省した。いやいや全然気にせんといて、と軽く流してみせるおじさんは、やはり大人だった。
 僕は気まずさで一杯になり、店を出ようと席を立つと、何を思ったかこんなことを口走っていた。
「おじさん。今、アルバイト募集してないっすか?」
 
 あれから一ヶ月。梅雨が終わり、夏になった。店先に取り付けられた風鈴が涼しげな音色を奏でている。僕はおじさんと一緒に、この小さな居酒屋で働いている。あれだけまずかったビールが、汗をかいた後に飲むとたまらなくおいしかった。
「暑っついな、仕事前に一杯飲もか」
 おじさんがビールを差し出す。夕刻、仕事前に酒を飲む二人。駄目な大人だな……と思いながらも、この光景がたまらなく微笑ましく、愛しく感じられた。
「おじさん。なんていうか、雇ってくれて、ありがとうございました」
 何をかしこまっとるんや、と照れるおじさんと缶ビールをぶつけ合った。
 僕もおじさんも、世間から見たら先の見えない人間かもしれない。でも、こんな小さな場所にだって、些細な幸せは存在している。これは、誰にも揺るがすことのできない事実なんだ。
「よっしゃ!」
 気合いを入れる。「元気やな、恋でもしとるんか」とおじさんの声。
 とにかく、がんばるっす。そう呟いて、僕はよなよなエールを一気に飲み干した。(了)