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掌編「涙が枯れ果てた男」

私は泣き虫だった。小学校ではクラスのいじめっ子に泣かされ、中学校では不良の先輩に泣かされ、高校では隣町の暴走族に泣かされ、大学ではいじわるな教授に泣かされ、就職先の会社では体育会系の上司に泣かされた。その場で泣くこともあれば、家に帰って一人で枕を濡らすこともあった。とにかく、他人から見れば呆れるほどに泣きっぱなしの人生だった。

やがて会社の同期の女性と結婚した。程なくしてかわいい娘が生まれたが、娘が5歳になったとき、突然、妻に離婚を切り出された。「これ以上、子育てはしたくないから」という、耳を疑う理由だった。離婚届を出した日、私は人生でもっとも多くの涙を流した。その日以来、私はまったく泣かなくなった。

きっと私の涙は枯れ果ててしまったのだ。一生分の涙を流しきってしまったのだ。ストックがないから、涙が出ない。当然のことだ。涙はきっと、そういうものなのだ。私の心が麻痺してしまったのではない。自動車はガソリンがなければ走れない。それと同じように、涙もストックがなければ流れない。涙はきっと、そういうものなのだ。 私は何が何でも一人で娘を育て、結婚するまで一生懸命働こうと決意した。

20年後。自慢の娘が結婚することになった。喜ばしいことではあるが、悲しさのほうが強かった。私は娘の結婚式のスピーチでこう言った。

「ずっと一緒だった君がいなくなるのは、正直なところ、さみしい。泣きたいくらい、さみしい。でも、お父さんは、泣けない。本当にさみしいと思っているんだけど、私の涙はいつからか枯れてしまったみたいなんだ」

私はそう言いながらも、氷のような冷めた表情をしていたと思う。普通なら、そんな話をすれば泣いてしまうものだ。しかし私は悲しい表情もできず、涙も流せなかった。周囲には、娘への愛情を持たない冷酷な父親として映っていたに違いない。悔しい。こんなに娘のことを愛しているのに、結婚して嬉しいのに、私の元から離れて悲しいのに……どうしても、感情が表情にならないのだ。

「お父さん、今までありがとう。あのね、私、ずっとお父さんに秘密にしていたことがあるの……」
無表情の私を見ながら、娘はゆっくりと話し始めた。

「お母さんが出ていってから、お父さんの悲しんでいる姿が見ていられなくて、祈ったんだ。『神様、どうかお父さんがこれ以上悲しまないように、二度と泣かないようにしてください』って。
 でも、その祈りは間違いだった。その時以来、お父さんは泣かないどころか、表情がなくなってしまったの。
 私は気づいていたよ。無表情でも、怒っているんだなって。嬉しいんだなって。悲しいんだなって。泣きたいんだなって……。泣きたいのに泣けないなんて、そんな辛いことはないよね。ごめんね、お父さん。私、ひどいことしちゃった。お父さんのこと、大好きなのに、余計に辛い思いをさせちゃった。ごめん……本当に、ごめんね。お父さん、もう、泣いていいんだよ……」

その時、天井から大きな水の塊が降ってきた。いや、正確には降ってきたように見えた。水の塊は私の顔を包み込んだ。温かく、しょっぱかった。この20年間、私が失っていた涙だ。涙が戻ってきたのだ! 涙は、私の目に向かって勢いよく流れ込んできた。目を閉じる余裕はなかった。異様な状況の中で、私は忘れていた感情を思い出した。心が震え、全身に温かい血液が流れ、胸の奥から感情がこみ上げてきた。

私の顔は20年ぶりに表情を取り戻した。あまりに久しぶりで、どういう表情をしたら良いのか分からなかった。娘はしばらく心配そうに私を見つめていたが、私の目に涙が浮かんでいることが分かると、私の胸に飛び込んできた。私は涙を流しながら、娘を抱きしめ、
「け、結婚、おめ、おめでとう……! ほ、本当に、おめで……とう!」
と言った。泣きながら言葉を発することが、こんなにも大変だったとは。私の視界は涙でぼやけ、ほとんど何も見えなかったが、娘がうんうん頷く感触が伝わり、また心が震えて、涙が溢れ出した。

「お父さん、たくさん泣いていいんだよ。ずっと無理してきたもんね。私をここまで育ててくれてありがとう」
娘の発する言葉のひとつひとつに、いちいち心が震え、涙がとめどなく流れた。私は取り戻したのだ。娘の結婚式という最高にめでたい日に、感情と涙を取り戻したのだ。
「ありが、とう……。これからは、涙を、失くさないように、生きる、からね……!」

一人になった私は、また昔のように、泣き虫に戻った。家の中に娘がいない。それだけで毎日泣いている。さみしくてならない。だが、泣けないよりはよっぽど良い。私の涙のストックは、まだまだたっぷりありそうだ。20年分の涙は、どれくらいの量になるだろう。

泣き虫な私だから、お風呂一杯分? いや、プール一杯分? もっと多いだろうか。これだけ毎日泣いているのだから、池、川、湖くらいだろうか? もっともっと多いだろうか。
「そのうち、家のまわりは涙で海になるかもしれないなあ……」
私はつぶやいていた。独り言など、いつ以来だろう。
「……独り言なんて、いつ以来だろうなあ!」
少し恥ずかしかったが、心が晴れやかになった気がした。私は嬉しくなって、涙を流しながら笑った。