短編「30秒で人生を変える方法」

 男は「世界を制した男」として名を馳せていた。自分のことを考える時間は、小学生の頃からまったくと言っていいほどなかった。なぜなら男は、物心がつき始めたときから「世界一の大金持ちになる」という、大きな夢に向かって一心不乱に突き進んだからである。

 有名大学へ進学後は、在学中に起業し、「大学生起業家」として有名になった。大学卒業後は事業に専念し、25歳のときに空気中に画面を映し出すディスプレイの開発に成功。大手携帯電話メーカーと提携し、数億台におよぶ携帯電話に搭載された。時計サイズのディスプレイがあれば、どれだけでも大きく空気中に投影できるため、スマートフォンの大画面化競争に終止符を打った。

 莫大な富を得た男は、その後も数々の新事業を展開し、さらなる富を得た。30歳のとき、歌姫として世界的に有名な女性と結婚し、3人の子どもを授かった。豪邸のある敷地は東京ドームよりも広く、世界中からミュージシャンを呼び寄せ、庭でライブを開くほどだった。

 男が35歳になる頃には、グループ会社をふくめ1000社を超えるグローバル企業に発展。日本人として初めて「世界の富豪トップ10」にランクイン。マスコミからも引っ張りだことなっていた。タレント活動が忙しくなると、仕事はすべて右腕となる幹部に任せ、芸能人としても有名になった。

 すべてが順調に進んでいたが、男が40歳のとき、男の右腕だった幹部が不祥事により逮捕され、株価が大暴落。男はタレント活動を自粛し、会社の建て直しに尽力したが、巨大になりすぎた会社はもはや男一人の力では手に負えず、その年は初の赤字決算となった。さらにグループ会社の幹部たちや株主から強い反発を受け、会社の代表取締役を退陣することとなった。自分で立ち上げた会社でありながら、舵を取れなくなり、居場所がなくなってしまった男は、自らの意志で会社を離れた。

 会社を離れた男に待っていたのは、地獄のような日々だった。あるとき、家に帰ると、妻は「お帰り」の言葉の代わりに離婚届を男に渡し、さらに資産や土地を譲渡する同意書に署名をさせられた。

 男はすべてを失った。家を出ると、がっくりと肩を落とし、あてもなく歩いた。歩きながら、これからの生き方を考えようとしたが、何も考えられなかった。すべての精力を会社に注いできた男にとって、会社以外のことを考える余裕などなかったのである。

 男は歩き続けた。日が沈み、夜が深まり、人気のない道を歩き続けた。やがて完成間近といわれている世界一の高層ビルが見えた。男は高層ビルの敷地にこっそり入り込み、作業用に使われる細く長い階段を、ゆっくりと上がり始めた。

 運動をしてこなかった男にとって、階段を上がるのは辛かったが、途中で休むことはなかった。ギシギシと大きな音を立てる階段の音だけが、生きている証明だった。膝ががくがくになり、何度も転びそうになりながら、なんとか最上階まで登り切った。

 男は屋上の床に倒れ込み、仰向けになって夜空を眺めた。世界一高いビルだからか、いつもより星が近く見えた。じっと夜空を見続けると、目が闇に慣れてきて、光の弱い星も見えてきた。流れ星。男は初めて流れ星を見た。
「私は……何も知らなかったんだな……」
 男は夜空をいつまでも眺めながら、涙をこぼした。
「涙なんて……いつ以来だろう……うっ、ううっ……!」
 男の目からは、堰を切ったように大粒の涙が流れ落ちた。涙は数十分間流れ続け、やがて枯れ果てた。男は目を腫らしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「最後にこんな綺麗な星が見られて良かった」
 男はすべてを悟ったかのようにやさしく笑い、世界一の高層ビルの屋上から身を投げた。

 屋上から地面まで勢いよく落ちていく時間は、わずか30秒。男はこの30秒の間に、生まれて初めて自分自身を見つめ直すことができた。
 親ときちんと話したことがなかったこと。感謝の気持ちを伝えられなかったこと。信頼できる友人が持てなかったこと。それは本音を他人に話すまいという虚栄心が原因だったこと。妻や子どもをうまく愛せなかったこと。妻の歌姫というステータスがほしかっただけだったかもしれないということ。離婚届を突きつけられるのも当然だったこと。社員やグループ企業の幹部たちを物のように扱っていたこと。会社から追い出されて当然だったこと。つい先ほどまで、流れ星すら見たことがなかったこと。すべてを手に入れていたようでいて、本当は何も持っていなかったこと。
 男は落下しながら、初めて自らの過ちに気づいたのである。

「……やっと気づけたというのに、やっとこれから新しい人生を送れそうなのに……死んでしまうとは」
  暗やみの中、肌に強烈な風圧を感じながら、後悔の念に襲われていた。
「あんな高いところから飛び降りるんじゃなかった……これでは間違いなく死ぬ。奇跡の起きようもないだろう。私の命は……コンクリートにぶつかった瞬間、消えてなくなるのだろう」
 暗やみで何も見えないのがせめてもの救いだった。地面が見えたら、空中で気を失っていただろう。
「あと数秒……死を待つだけの人生か。私は……」
 体が何かに触れ、男は死を覚悟した。一瞬、時が止まったようになり、直後に体が天へと飛び上がるような感覚があった。
「……死とは、こういう感覚なのか。死ぬのは怖かったが、痛みもなく、一瞬で死ねたようだ」
 天へと飛び上がったかのように思えた体は、重力に逆らえず、落下し始めた。
「これは一体……?」
 再び体が何かに触れると、またも体が飛び上がった。その時、目の前が急に明るくなり、よく知った顔がライトに照らされた。

「あなた、帰ってきて!」
 妻の声。
「お父さん、帰ってきて!」
 子供たちの声。
「社長、帰ってきてください!」
 不祥事で逮捕されたはずの幹部の声。
「社長、いつまでトランポリンで遊んでいるんですか?」
 有名なアナウンサーの声。
「トランポリン?」
 男が下を見ると、巨大なトランポリンが置いてあった。状況が飲み込めず、トランポリンに乗ったままでいると、数人が男を抱え、トランポリンから下ろした。
 男は呆然と立ち尽くしており、目の前にいる妻や子供たち、幹部やアナウンサーの顔を見ても、状況を把握できなかった。
「ここは……天国?」
 わっはっは、と笑いに包まれ、ライトが強くなる。妻と子供たちが男に近づくと、あるフリップを掲げた。
「あなた、これを読んでみて」
 男は目を疑った。
「ドッキリ……大成功!?」
 男はしばしの沈黙の後、ようやくここが天国ではなく現実だと理解したらしく、妻と子供たちを抱きしめた。
「信じられない……ドッキリって……、どこから、どういう、どうして……?」
 状況を飲み込めていない男に対し、アナウンサーが説明を始めた。
「はい、それでは社長に説明しましょう。今回のドッキリ、実は幹部の逮捕から始まっていました——」
 アナウンサーは、幹部の逮捕に始まり、妻が離婚届を突きつけ、家を出て歩くしかない状況を作り、巧妙に誘導し、高層ビルにたどり着くようにしたことを説明した。
「そういえば……通行止めの看板が多かった気がする」
 男は納得した。

 アナウンサーはさらに説明を続けた。ドッキリ番組の仕掛け人は、妻と子供たちだった。ドッキリの打ち合わせのとき、妻が放った「あの横柄な態度は、一度死ななきゃ治らないわ」の一言で、番組スタッフは男を自殺まで追い込むことに決めたのであった。

 しかし、会社の経営があまりに順調なため、自殺に追い込む策を考えるのが大変だった。番組スタッフが男の妻に相談すると、「資産と土地をすべて売り払ってもいいから、ドッキリを成功させてほしい。そんなものよりも、人間味のある夫になって帰ってきてほしい。それが私たち家族の望みよ」と、土地や資産を番組側に譲渡することを約束。番組側は膨大な資金を使い、幹部の逮捕を演出し、株主を説得し、株価を操作したのだ。

「そう、離婚届は嘘だけど、土地や資産の譲渡についての同意書は本当よ。譲渡先は私じゃなくて、テレビ局だけど」
 妻の言葉に、夫である男は驚いた。
「えっ、それは本当なんだ……」
「そう、これからはアパートで生活するの。土地や資産なんて、幻のようなものよ。もう一回、やり直しましょう」
 男は無言で頷き、涙を流しながら、妻と子供たちを抱きしめた。
 かつて世界を制した男は、わずか30秒で、家族思いの人間に生まれ変わったのであった。