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小説「手紙」

らせん階段をカン、カンとハイヒールが音を立てる。車通りの少ない深夜二時の閑静な住宅街では、猫の鳴き声とマンションの住人の足音くらいしか届いてこない。
カンカンカンカン……ガン。母である。また飲み過ぎて階段の途中で倒れたのだ。私はすぐさまサンダルを履いて玄関を出た。春とはいえ、夜明け前の外気は肌寒かった。
「ごめんねー、ヒロちゃん。お店は暇だったんだけど、飲めないくせに人に酒を勧めてくるお客さんがいたもんだから」
ハイヒールを脱ぐと、母はうがいだけ済ませ、リビングのソファーに倒れ込んだ。どれだけ酔っぱらっていても、うがいだけは忘れたことがない。記憶が飛んでいても欠かさないことに驚いて、一度だけ理由を尋ねたことがあったが、「プロは風邪をひかないんだよ」という、よく分からない返答だった。
私はこの母を嫌いではない。よくやってるなと思う。「奨学金が出たら」という条件付きだったけど、無事に大学に行かせて貰っているし、こうしてヘロヘロに酔っぱらっている母の姿は、一時はだらしなくて嫌いだったけれど、私が年をとったからなのか、最近では愛らしくさえ感じる。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、そっとテーブルに置いた。「おやすみ」と一言挨拶をして部屋に戻ると、気が抜けてすぐに布団に潜った。
灯りを消して暗闇の中、ぼーっと中空を見つめる。赤・黄・青、もやもやとしたアメーバのようなものが混じり合って、意識が薄れる。目を閉じると、ふと昔のことを思い返していた。

父は私が小学生のときに家を出て行った。当時は「男と女」の関係を理解できていなかったので、どこに行ってしまうんだろうと不思議がったけれど、今思えばそういうことなのだろう。
父と母と私、三人で暮らしたマンションに今も住んでいる。郊外で、駅から徒歩十五分という立地は、悪くはないが不便といえば不便。母は「いつか引っ越そうね」と、事あるごとに言ってくれるが、その言葉を聞き続けて十年近くになるので、もう諦めている。
母には夢があるらしい。どれだけ飲んで酔っ払っても、ソファーに眠るくらいで、醜態をさらすことはほとんどなかった。しかし、一度だけ「今日ね、アブサンっていう白濁する変なリキュール飲んだんだよ」と言って帰ってきたときがあり、カーペットに胃の中のものを戻しちゃうし、そのまま私に抱きついてきて、猫を相手しているかのように撫でてきて大変だった。その時ばかりは、「母さん最悪……」と毒づいてしまいそうだったが、酔っぱらいに何を言っても無駄なことは、中学生のときに悟っていたので、やめておいた。本人が覚えているかどうかは分からないが、その時に言い放った言葉は印象的だった。

「私ね、ヒロちゃん。夢があるんだ。ふふっ、いい年してって思うでしょ。でもね、あいつと別れてから悔しい思いしたからさ、絶対に幸せになってやるんだ。ヒロちゃんが無事に大学を卒業して、私の手から離れたら――そりゃ淋しいけどね。私も疲れちゃったから、一人で自由に生きようと思うんだ。実はね、こっそり積立貯金しててさ、そのお金で海外旅行するんだ。目指せバックパッカー、みたいな。バカみたいでしょ。でもいいの、私は勝手なんだ――」

そんな内容だった。だいぶ私の中で脚色されているだろうけど、「疲れちゃった」という言葉を聞くのは初めてだったし、辛かった。
その頃も、母は母なりに大変だって分かっていたけれど、欲しいものがあるとしつこくねだったり、父がいないことを詰問してしまったりした。欲しいものなんて、今となっては全然必要のないものだし、父のことだって、幼い頃からほとんど家にいなかったものだから、いてもいなくてもどちらでも構わなかったはずだった。
翌日からは、少しだけ母に対して優しく振る舞えるようになった。不器用な私だけれど、振る舞うように努めた。母だからって、いつでも強く生きている訳じゃないし、弱い部分も備えた普通の人間なのだ。できることには限界がある。子供一人を大学に行かせ、衣食住の確保に必要なお金を稼ぐ。それだけで、もう十分ではないか。
十分ではないか――の続きを考えようとしたところで、目尻から耳にかけて涙が伝っていた。一人で感動するのは私の習慣。泣くと気持ちがすっきりするから。変な奴だなと自分で認めつつ、今度こそ眠りについた。

春休みだというのに、大学の一限に遅れる夢を見てしまったので、テレビで今日の運勢を一方的に流している時間帯に目が覚める。眠かったけど、ひんやりとした朝の青臭い空気を堪能したかったので無理して起きた。せっかくだから、今のうちに燃えるゴミを出しておこうとリビングに出ると母がいない。母の部屋にも、トイレにもお風呂にもいない。そもそも、母はこの時間に自分の部屋で寝ていることはほとんどない。深夜に酔っ払って帰るとソファーで眠り、昼前に水分を補給するために起きて初めて、自分の部屋に行ってベッドで眠るのだから。そんな母がどこへ行ってしまったのだろう。
ソファーにはまだ温もりが残っていた。そしてテーブルの上には置き手紙と封筒。読みたい気持ちがあるはずもないが、目を通すしかなかった。

博子へ
勝手なお母さんを許してね。訳あって、しばらく家を留守にします。大丈夫、スナックを首になった訳ではないから、長期休暇みたいなもの。ヒロちゃんも大人だから、きっと理解してくれると信じています。春休みが終わる頃には帰ります。新しい父さんなんて必要ないよね。分かってる、そういうんじゃないから。光熱費は口座振替にしてあるけど、家賃だけは振り込みなので、それだけはお願いします。何かあったらケータイに連絡してくれて構いません。最初で最後のワガママだから、許してね。
誰よりもあなたのことを愛しく想う母より

封筒には通帳と現金が入っていた。こうして、私は突然一人になった。何この、三文小説みたいな展開。こういうとき、主人公は何をするだろう。事件を起こすしかないじゃない。援助交際でもしてやろうか、クラブに行って逆ナンしようか、このお金でブランド品を買い漁ろうか? もう、何もかもがどうでも良くなっちゃう。もう、何もかも……。

――何かの本に「最悪のケースを想定して行動するべき」と書いてあったので、実行してみた。いつもの癖だったが、その時々に影響された情報により、空想する内容は変化するらしい。あさっての方向に思いを馳せていると、玄関のドアが開き母が帰ってきた。
「お帰り、こんな早くどこ行ってたの」
軽く心配していた私の気持ちとは裏腹に、「トイレに起きたから、ついでにゴミを出しに行っただけよ。じゃ、お休みー」と言って、自分の部屋に戻ってしまった。呑気なものだ。私の中では大事件が発生していたというのに。このまま昼まで母は起きないだろう。私はすることがなくなってしまった。天気が良かったのでベランダに布団だけ干し、私服に着替えた。
そういえば、この時期デパートではクリアランスセールをやっているはず――暇だし、今日は新宿まで出てみようと決めた。電車で三十分程度の距離なので気軽に行けなくはないのだが、駅まで十五分の道のりは休日に出るには少し億劫だ。何より私は人込みが嫌いというか苦手なので、たまにしか行かない。
洗面所で軽く顔を整え、母の部屋を向き行ってきますと挨拶し、昨晩の母と同じようにらせん階段をカンカンと――ではなく、ドンドンと音を立てて駆け下りた。私はハイヒールが苦手なのだ。階段はしっかりした作りではないので、子供が歩いても音がするわけで、決して私が太っているわけではない。

駅前の階段を上るとお腹がぎゅるりと鳴った。そういえば起きてから何も食べていなかった。駅ビル内にあるイートインできるパン屋に入り、カロリー少なめのパンを二つとコーヒーを注文した。
窓際の席に座り外を眺める。午前中ということもあり人通りはまばらで、子供が鳩を追いかけて遊んでいた。彼氏らしき人物と一緒に歩いている女性が、ハイヒールに慣れていなかったせいか転びそうになっていた。私も未だにあれが苦手で、排水溝の小さな穴に靴のヒール部分がすっぽりとはまってしまい、恥をかいたことがある。母と一緒だったから良かったものの、一人でそんな失態をやらかしたと思うと、考えるだに恐ろしい。
遠くからゆっくりと老夫婦が歩いている。お爺さんはお婆さんの左手を、お婆さんはお爺さんの右手をぎゅつぎゅっと握りしめていた。いいな、どれだけ年を重ねようが愛し合っているんだ。そんな出会いがあるといいな。私にも、母にとっても。店を出ると、入れ違いでその老夫婦が入っていった。いつまでもお幸せに。
電車に乗ってしばらくすると、深夜に起きたせいだろう終点の新宿まで眠りこけていた。

東口を出ると、平日の昼間だというのにけっこうな人出。さすが新宿である。この街を歩くと、すれ違う一人一人に「どこへ行くんですか?」と目的を尋ねてみたくなる。誰もが同じようなことを考えているのかも知れないが、現実味がなさ過ぎるので誰も行動に移さないのだろう。
書店に立ち寄り、『マダラの河豚』という長嶋まろ氏の文庫を買う。この人の作品はほとんど買い揃えていて、エッセイ『私が踏まれた男と私に踏まれた男』には、男を知らない私にとって参考すべき点が多々あったし、『今夜、飢えても知らんで』という中編小説では、飢餓の恐ろしさをユーモラスたっぷりに描いており、電車内で笑いを堪えるのに大変だった。
新宿通りに出て目的地へと向かう。人を避けるのが苦手な私は、途中何度も人にぶつかりそうになる。幾らかの苛立ちを抑えながらも、何とかデパートに辿り着いた。

あちこちから飛び交う「いらっしゃいませ」の挨拶。店員さんの視線をかわしながら、二割~五割引きと書かれたバーゲン品を物色する。安くなっているとはいえ、一万円以上のものも少なくない。財政が厳しい我が家においては、オシャレな洋服を買うだけでも相当な困難。現に今着ているワンピースだってほとんど一張羅のようなものだ。
2Fから3F、3Fから4Fと、階が上になるほどバーゲン品は少なくなり、どんどん場違いな空気に包まれる。4Fから5Fへ上るエスカレーターに乗っている途中、高校生くらいの男の子が下っているのを見かけた。髪は真っ黒で大人しそうな印象。春休みで私服だった彼は特に目立っておらず、女性服専門のデパートにはおよそ似つかわしくなかった。不思議に思ったが、まあ彼女へ贈るプレゼントでも探しているのだろう。私は彼のことを「男子禁制の地に望む勇敢な丸腰の戦士」と勝手に名づけた。
きらびやかな衣装を目に焼きつけ、いつかはこんな格好でダンスパーティーに出かけたいな、とデパートの最上階で夢見ていると、さっきから視界の隅っこで小さな生き物が動いていることに気づいた。眼球に埃が入ると、プランクトンのような小さな半透明の物体が上から下へと移動する様を確認できるが、それとは全く違うようだ。人間の子だと気づいたのは数秒後。
とん、と太腿の辺りに何かがぶつかり、同時に小さな痛みを覚えた。小さな女の子が走り回っていて、肘が私の足に当たったのだ。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
若い母親らしき人物が申し訳なさそうに言う。
「あ、はい。大丈夫ですから……」
早口で言い返すと、そそくさと立ち去った。心の中では、「いえいえ、気にしないで下さい。元気なかわいいお子さんですね」と微笑んでいたのに。私は知人以外との会話が苦手なのだ。不得意分野が多すぎて、先行き不安である。
まだ全部をチェックできていなかったが、その気持ちよりも気まずさが上回っていたので、下の階へ戻ることにした。
エスカレーターが面倒だったので、エレベーターを使った。最上階なので私以外は誰も乗らなかった。
ぼーっと階を示す数字を見つめる。数字は一つずつ確実に小さくなる。7F、6F、5F、4……チーンという音と共にドアが開き、男性が乗った。「閉」ボタンを押し、密室に二人きりの状況に緊張感を隠せない。私はエレベーターの入り口から見て左側「ボタンを押す係」の位置に立っていた。男性はちょうど反対側に立っており、右手には、買い物をしたのだろうデパートのロゴ入り袋がぶら下がっていた。
視線を上にずらすと、ハッとした。
丸腰の戦士だ。